前回に続き
『紫式部日記』を通して
『源氏物語』の作者の千年前の思いのうち、私の心を波立たせてくれた彼女の吐息にふれます。
はじめの引用箇所は、この日記のなかで、彼女が
自分自身を省みた思いを書き記されているところです。紫式部の日記を読むと、宮廷でのできごとを書く場合にでも、最後には自分自身にひきよせて考える、とても
内省的な魅力ある女性ですが、その心をみつめる姿が浮び上がっています。考える前に、考えることなく、言葉を並べ立て、主義主張を押し通す人たちを敬遠し、言葉にするまえに深く考え、言葉をのみこんで考える、紫式部がいます。私も性格が似通っているので、彼女の思いがとてもわかる気がします。
どんどん口に吐き出すことに快感を感じる社交的な押しの強い人は弁論家や政治家向きですが、
物語作者、歌人、詩人にはなれないと私は思います。彼女があの長大な美しい物語を織り上げ切った母体にはこのような、
心の深さの方向を見つめているまなざしがあるのだと感じました。
◎引用訳文1よろずのことは人によってまちまちである。いかにも得意そうに派手で満悦して見える人もいます。何かにつけ所在なくさびしい人が、気のまぎれることのないままに、古い思い出の手紙を読み返しては、仏前のお勤めに身を入れて、口をさかんに動かして読経し、数珠の音を高く鳴らしますのは、[他人には]好感がもてないものだと存じまして、自分の思うままにしてよいことをさえ、ただ召し使う者の目にふれるのを憚り、心の中に納めて話しません。まして宮仕えに出て人の中に交わるときには、言いたいことがあっても、さあどうかな、この人には言わないほうがよい、と思われて、分かってくれそうにない人には、言っても無駄でしょうし、何かと文句をつけて、我こそはと得意になっている人の前では、面倒だから話すことも気が進まない。特にあれもこれもすぐれている人は、そんなにいるものではありません。ただ自分の心にたてた主義主張をとりあげて、他人を無視するもののようです。
☆原文よろづのこと、人によりてことごとなり。誇りかにきらきらしく、ここちよげに見ゆる人あり。よろづつれづれなる人の、まぎるることなきままに、古き反古(ほんご)ひきさがし、行ひがちに、口ひひらかし、数珠(ずず)の音高きなど、いと心づきなく見ゆるわざなりと思うたまへて、心にまかせつべきことをさへ、ただわが使ふ人の目にはばかり、心につつむ。まして、人のなかにまじりては、いはまほしきこともはべれど、いでやと思ほえ、心得まじき人には、いひてやくなかるべし、ものもどきうちし、われはと思へる人の前にては、うるさければ、ものいふことも、ものうくはべり。ことにいとしもものかたがた得たる人はかたし。ただ、わが心の立てつるすぢをとらへて、人をばなきになすなめり。
次の引用箇所で紫式部は、
いのちと信仰についてより露わに記しています。生きることの
憂さと悲しさを綴る彼女をわたしはすぐそばに感じて、ともに静かに寄り添っていたい、言葉少なに語りあいたい気持がします。
ここに書きとめられた言葉は、『源氏物語』で
紫の上や、浮舟、薫や大君の、深いためいき、憂い、悲しみ、信仰への希求と迷い、に通い合っています。物語の情感の深さの源に紫式部の心があり、彼女の心から生まれた物語の人物たちの心とつながり、響きあい、いのちの悲しみを奏でているのが聴こえてきます。
◎引用訳文2ほんとに、いまはもう遠慮いたしますまい。人が、どのように私を言おうが、ただ阿弥陀仏に向かって絶えず経を繰り返し唱えましょう。世の厭うべきことは、まったく少しの未練もなくなりましたので、出家し聖の生活をするのをなまけるようなことはありません。ただ一途に出家しても、臨終のとき阿弥陀仏や様々な菩薩が迎えに来てくださる雲に乗らないうちは、気持ちがぐらつくことがありそうです。そのためにためらっているのです。
年齢もともかく[出家には]適当な頃になっています。今よりもひどくもうろくして、あるいは目が悪くなり、心のものうさが強くなるでしょうから、信心深い[人の]人まねのようですが、今はただ、ず経の生活を思っています。その願いも、罪深い人は必ずしもかなわないのでしょう。前世からの宿命の拙さが感じられることが多くございますので、何ごとにつけても悲しいのです。
☆原文いかに、いまは言忌(ことい)みはべらじ。人、といふともかくいふとも、ただ阿弥陀仏(あみだほとけ)にたゆみなく経をならひはべらむ。世のいとはしきことは、すべて露ばかり心もとまらずなりにてはべれば、聖(ひじり)にならむに、懈怠(けたい)すべうもはべらず。ただひたみちにそむきても、雲に乗らむほどのたゆたふべきやうなむはべるべかなる。それにやすらひはべるなり。
としもはた、よきほどになりもてまかる。いたうこれより老いほれて、はた目暗うて経よまず、心もいとどたゆさまさりはべらむものを、心深き人まねのやうにははべれど、いまはただ、かかるかたのことをぞ思ひたまふる。それ、罪ふかき人は、またかならずしもかなひはべらじ。さきの世知らるることのみおほうはべれば、よろづにつけてぞ悲しくはべる。
こことは別に「愛(かな)しい詩歌」に、『紫式部集』から私の好きな彼女の歌を選び咲かせます。
出典:
『紫式部日記 紫式部集 新潮日本古典集成』(山本利達 校注、1980年、新潮社)(*漢字や記号と訳文は、読みやすいように書き換えた箇所があります。)
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もう一つ 青い空に白い雲 の高畑耕治さんは「死と生の交わり」の高畑耕治さんですか?別人ですか
わかれば教えてもらえると嬉しいです。
みじかいけれどどではまた・・・