これまで詩の調べと言葉について私の思いを記してきましたが、これから数回にわたっては、私が共感し励まされ尊敬する、心に残る先人の詩歌についての言葉を書き留めたいと思います。
今回は、歌という芸術に人生のすべてをかけた親子、藤原俊成と藤原定家の歌論の核心の言葉です。
出典は、『日本詩歌選 改訂版』(古典和歌研究会編、新典社)と、
、『やまとうた』(水垣久,ホームページ)です。『やまとうた』はパソコンで読みたいときに気軽に和歌に触れる機会を提供してくれる熱意ある良いホームページです。訳は水垣久のものです。
まず、
藤原俊成の『古来風空躰抄』(こらいふうていしょう)(一一九七年)の言葉。俊成は勅撰和歌集、千載和歌集の撰者です。私の心には平家物語に描かれた俊成が記憶に焼きついています。
歌はただ、よみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆることのあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきて、良くも悪しくも聞ゆるものなり。 【訳】歌はただ、口に出して読んだり詠じたりしてみると、何となく優美に聞えたり、情趣深く聞えたりすることがあるものだ。そもそも「詠歌」と言うように、声調によって、良くも悪くも聞えるものなのである。
但上古の歌はわざと姿をかざり詞をみがかむとせざれども、代もあがり、人の心もすなほにして、ただ詞にまかせていひいだせれども、心もふかく、すがたも高くきこゆるなるべし。 【訳】ただ、上古の歌は、意図的に姿を飾り、詞を錬磨しようとはしないけれども、時代が昔のことで、人の心も素直で、ただ自然と詞の出て来るのにまかせて言い出したのだけれども、心も深く、姿も高く(立派で格調高く)感じられるのにちがいない。
次に、
藤原定家の『近代秀歌』(一二〇九年)から。定家は勅撰和歌集、新古今和歌集の撰者です。
ことばはふるきを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて、寛平以往の歌にならはば、おのづからよろしきことも、などか侍ざらん。 【訳】詞は古きを慕い、心は新しきを求め、及びがたい理想の姿を願って、寛平以前の歌を手本とすれば、おのずから良い歌が出来ないわけがありましょうか。
俊成の言葉は、詩歌にとって調べがとても大切なものであることを、そして心を素直に歌いだした言葉が人の心にいちばん伝わるという、詩歌の根本を教えてくれます。
定家の言葉は、生き続け伝え続けられてきた言葉の重みを教えてくれると同時に、歌いだす心は伝統や保守、これまであったものに順従にへりくだりまねするだけでは、決し心を呼び覚ます詩歌とはならないと教えてくれます。
ともに詩歌に命をかけた人だからこそ言える言葉だと感じます。
これらの歌論を学ぼうとし贈られた二人も、詩歌に命を注ぎ生きた人です。前者は式子内親王(しょくしないしんのう)、後者は『金槐和歌集』の源実朝。俊成、定家に教えられた言葉の核心を、式子内親王と源実朝は、詩歌として花ひらかせている、と私は思います。もし歌論を読んだ月日と歌の前後関係が逆であった場合でさえそれは重要なことではありません。魂で感じていて言葉にはできずにいた思いを確かなものにするためにだけ、歌論書を求めたのではないか、歌論がなくても、式子内親王と源実朝は、伝えられた良い詩歌を生むことができる人だった、でも俊成と定家の歌論に生きること詩歌を生むことをきっと励まされたんだ、と私は感じます。
定家、式子内親王、源実朝の好きな歌を別の機会に「愛しい詩歌」に咲かせたいと思います。
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