ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ
『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、読み感じとり考えています。
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の流れの中から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ私の魂を特に揺さぶり、想い、考えずにはいられないと感じる、主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。
今回は4回目、ルソーが人間の良心、感情について述べている箇所です。
ルソーは波のうねりのような文章を連ねて「情念」、「良心」、「感情」について熱く語っています。波の浮き沈みが激しさのままに流れ去ろうとする想念をとらえるために、波頭のしぶきと波の底のよどみ、彼が人間の本性にみる「高めるもの」と「引き下げるもの」それぞれを、文脈から掬いとってみます。
1.人間の本性を高めるもの。良心。感情。
「永遠の真理の研究へ、正義と道徳的美にたいする愛へ」「感情が人間の心に呼びさまし」「良心は魂の声」「甘美な感情」「歓喜に脈打つ」「やさしい感動がその眼をうるませる」「善への愛と悪への憎しみ」「自身への愛と同じように自然なもの」「良心のはたらきは、判断ではなくて、感情」「存在するとは、感じること」「観念を持つ前に感情を持った」「良心!」「人間の本性の優秀性と人間の行為の道徳性を生みだす」
2.人間の本性を引き下げるもの。情欲(情念)。悟性、理性。
「官能の奴僕である情欲に隷属」「情欲によってさまたげ」「情念は肉体の声」「自分自身しか愛せなくなった人間」「凍てはてたその心」「この不幸な人はもう感じなくなっているのだ。というより、もはや生きてはいない。死んでいるのだ。」「規律なき悟性と原理なき理性」「過ちから過ちへとさまよう」「禽獣の上にわたしをぬきんでさせる何ものも」
ルソーは、「自分自身しか愛せないかどうか」、善と悪、道徳性をとらえています。情欲(情念)という言葉も、「自分の欲望だけを満足させること」という意味で使い、相手がいて相手を想い相手と高めあう「愛」とははっきり分けて考えています。
同時に彼は、「感情」と「悟性、理性」を対立させ、「感情」こそ人間の証だといっていることに、私はふかい共感を覚えます。「悟性、理性」の名のもとに人間が他の動物たちの上に立つとする驕った考えの嘘、それらは人間を「過ちから過ちへと」さまよわせる「悲しい特権」だとみなします。
「悟性、理性」を磨きあげてきた賢明な現代社会は、世界大戦を防ぎえず、原子爆弾を投下しても、「賢しらな」大義、言い訳を捏造するばかりで、相変わらず軍備増強競争に血眼です。どんなに知性的な風貌をし、頭がよくても、「この不幸な人はもう感じなくなっているのだ。というより、もはや生きてはいない。死んでいるのだ。」と私は思います。
「存在することは、感じること」、とても美しい言葉だと私は思います。
「甘美な感情」「歓喜に脈打つ」「やさしい感動がその眼をうるませる」、これらを感じとれることが、生きること、人間らしく生きていること、そう思います。文学はこの真実を伝えあう芸術です。
「良心は魂の声」「良心のはたらきは、判断ではなくて、感情」。人間には、どんな時代にも変わらない、大切なものがあることを、心に響かせ続けていたいと、私は願います。
● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。(*似通う主題についての言葉をまとるため、前回引用箇所も含め、本文での順序を少し前後させています)。
人間の本性について思索したとき、わたしはそこに二つの明別される原理が見いだされるように思った。その一つは、永遠の真理の研究へ、正義と道徳的美にたいする愛へ、それを観照することが賢者の愉悦となるような叡智界の領域へと人間を高く昇らせるものであり、他の一つは、人間をそれ自身のいやしい部面へひき下げ、官能の支配に屈服させ、官能の奴僕である情欲に隷属させ、せっかく第一のものの感情が人間の心に呼びさましたものを、情欲によってさまたげるものであった。
(略)
良心は魂の声であり、情念は肉体の声である。
(略)
いやしい情念のために、狭い魂のなかに甘美な感情を窒息させられてしまった人間、あまり自分のうちにはまりこんでしまって、ついには自分自身しか愛せなくなった人間は、もはや恍惚たる境地を味わうことはない。凍てはてたその心は、もはや歓喜に脈打つこともたえてない。やさしい感動がその眼をうるませることもけっしてない。その人にはもはや心をたのしませるものはなに一つない。この不幸な人はもう感じなくなっているのだ。というより、もはや生きてはいない。死んでいるのだ。
(略)
というのは、われわれは知る前に感じるからである。そして、われわれは自分の幸福を望み、不幸をさけるすべを教えられるのではなくて、そういう意志を自然からさずかっているのだが、それと同じように、善への愛と悪への憎しみは、われわれにとって、われわれ自身への愛と同じように自然なものだ。良心のはたらきは、判断ではなくて、感情である。われわれの観念はすべてわれわれの外部から由来するのだけれども、それらの観念を評価する感情はわれわれの内部に存在している。
(略)
われわれにとっては、存在するとは、感じることである。われわれの感性は、異論の余地なく、われわれの知性に先行しているのであって、われわれは観念を持つ前に感情を持ったのだ。
(略)
良心! 良心! 神聖な本能よ、不滅の天の声よ、無知で狭隘(きょうあい)な、しかし知性ある自由な一存在の確乎たる案内者よ、善悪に関してあやまつことのない審判者よ、人間を神にも似せしめる者よ、なんじこそ人間の本性の優秀性と人間の行為の道徳性を生みだす者だ。なんじが存在しなければ、ただ規律なき悟性と原理なき理性との助けをかりて、過ちから過ちへとさまよう悲しい特権を感じるのみで、わたしは自分のうちに、禽
獣の上にわたしをぬきんでさせる何ものも感じないのだ。
出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社) 今回の終わりに
私の詩「交わり‐ひとりであること(4)」をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。
次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。
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