ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ
『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。
今回は9回目、ルソーが自然、福音書(キリスト教の新約聖書)とイエスについて述べた箇所です。
諸民族の宗教と多くの宗派について語ったうえでルソーは次のような美しい言葉を書き記します。私の心に沁みわたってきて、喜びを感じとらせてくれる言葉なので、そのまま引用します。
「ただ一冊だけすべての人間の眼にたいして開かれたものがある。それは自然という書物である。この偉大な崇高な書物によってこそ、わたしはその神聖な作者に奉仕し、その作者を崇拝することを学ぶのだ。何人もこの書を読まないという弁解は許されない。なぜなら、この書はどんな精神にも理解できることばでもって、すべての人間に話しかけているからだ。」
この書は人間だれもに開かれていて、この星に、いつの時代に生まれたか、遠い古代か、遠い未来か、その違いによる差別はありません。どこに生まれたか、どの大陸、島々、どの民族か、国家か、その違いによる差別はありません。
この星を包み込む宇宙全体の作者なら、神聖な作者なら、永遠に比してあまりにも矮小な時間の、あまりにもありふれた小さな星のしわのように矮小な、生まれた時間や地域の違いで、差別するはずがあるだろうかと、私は思います。
自然という書物、私の想いを書き加えると、人間だけではない、他の動植物や山や川や海や青空、星々と宇宙そのもの全体で織りなされた、自然という書物を、そこに生まれた生き物として、愛さずにはいられません。この愛情はその作者を崇拝する敬虔な気持ちともいいかえられて、どの時代に、地球上のどこに生まれても、ひとりひとりが感じることができる感情です。
ルソーは続く箇所では、彼自身が生まれ育てられた時代の、スイス、ジュネーブの宗教、キリスト教をみつめます。
まず、福音書、新約聖書にある、啓示、神が人間に示したとされる奇跡、秘蹟について、次のように記します。
「わたしは啓示を承認しも否認しもしない。ただ啓示を認める義務をこばむだけである。というのは、このいわゆる義務なるものは、神の正義とは矛盾するものであり、それによって救いへの障害をとりのぞくどころが、それを倍加しかねないし、人類の大部分にとってそれを越えがたいものにするおそれがある。これをのぞけば、わたしはこの点では、尊敬をこめた懐疑のうちにとどまっている。わたしは自分をあやまつことのない者と信じるほどのうぬばれは持ちあわさない。」
前回、
キルケゴールの信仰についての考えは、啓示も、わからないことも、不合理も、その断崖を飛び越えて、信じることが信仰だと、書きました。
でも、私自身はルソーが危惧するように、啓示、奇跡、秘蹟を信じることが信仰だと押付けると、「救いへの障害をとりのぞくどころが、それを倍加しかねないし、人類の大部分にとってそれを越えがたいものにするおそれがある。」と感じます。
啓示、奇跡、秘蹟については「尊敬をこめた懐疑のうちにとどま」るルソーはだからといって、自分がただしい、信じる人は間違っているとは、けして言わず、決めつけません。わたしは彼のこの態度が好きです。
ルソーは続けて、福音書(新約聖書)と、イエスへの想いを書き記し、最後にとても謙虚な人間として次の言葉をこぼします。
「否定することも理解することもできないものを、黙って尊敬し、ただひとり真実を知っている偉大な存在者の前に身をむなしうしてへりくだることだ。」
私も彼とともに、自然という美しい書物の一文字として、謙虚でありたいと願っています。
● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。 わたしは、神がわたしに学者にならなければ地獄におとすぞと命令するとはどうしても思えなかった。そこで、わたしはすべての自分の書物を閉じてしまった。そのなかでただ一冊だけすべての人間の眼にたいして開かれたものがある。それは自然という書物である。この偉大な崇高な書物によってこそ、わたしはその神聖な作者に奉仕し、その作者を崇拝することを学ぶのだ。何人もこの書を読まないという弁解は許されない。なぜなら、この書はどんな精神にも理解できることばでもって、すべての人間に話しかけているからだ。たとえわたしが絶壁の孤島に生まれようとも、また、自分以外の人間を見たことがないとしても、たとえ世界の片隅で大昔起ったことをまったく教えられなかったとしても、もしわたしが理性を訓練し、育成するなら、またもし神からあたえられた多くの直接的な能力をよくもちいるなら、わたしは神を知り、愛し、神の事業を愛し、神の望む善を望み、神によろこばれるように地上におけるわたしの義務をのこらずはたすことを、ひとりで学ぶだろう。
(略)
しかし、わたしは啓示にとって有利な、わたしには反駁しがたい証拠を認めるにしても、また一方、同じくその反証となる、解きがたい反対論をも認める。賛否ともに牢固たる理由があるので、どう決定してよいかわからず、わたしは啓示を承認しも否認しもしない。ただ啓示を認める義務をこばむだけである。というのは、このいわゆる義務なるものは、神の正義とは矛盾するものであり、それによって救いへの障害をとりのぞくどころが、それを倍加しかねないし、人類の大部分にとってそれを越えがたいものにするおそれがある。これをのぞけば、わたしはこの点では、尊敬をこめた懐疑のうちにとどまっている。わたしは自分をあやまつことのない者と信じるほどのうぬばれは持ちあわさない。わたしに不確定なものと思われることも、ほかの人は決定してしまったかも知れない。わたしは自分のために推理するのであって、他人のために推理しているのではない。他人を非難しないし、またまねもしない。彼らの判断のほうがあるいはわたしのよりもすぐれているかもしれない。しかしわたしの判断がそれと一致しなくとも、わたしのせいではない。
以上とともに、わたしは聖書の崇高さに驚かされること、福音書の神々しさがわたしの心に話しかけることをわたしは告白する。哲学者のはなやかにかざりたてた著作を見たまえ。この書物とくらべれば、彼らの著作はなんとみすぼらしくなることか。かくも崇高でしかもかく単純な書物が、人間の手になるということがありうるだろうか。この書がその生涯をえがいている人物が、かれ自身、単なる人間にすぎないということがありうるだろうか。そこに狂信者や宗教的野心家の口調がみられるだろうか。彼の行状にはなんという柔和さ、なんという純潔さがあることか。また、彼のあたえる教訓には、なんという感動的な美しさがあることか。彼の述べる格率にはなんという気高さがあることか。彼の談話にはなんという深い知恵がこもっていることか。彼の返答には、なんという沈着さ、なんという巧妙さ、なんという正確さがみられることか。情念をおさえるなんという威力だろう。こういう人間、ひるむこともなく、またてらいもせず、行動し、苦しみ、死ぬことを知っているこういう賢者が、どこにいるだろう。(略)しかし、イエスは、彼だけがひとり教訓と模範を示したあのけだかく清らかな倫理を、自国の人びとの間にいて、どこからえたのだろうか。
(略)
それにもかかわらず、この同じ福音書には、あきれるようなことがら、つまり、理性に反することがら、すべて思慮分別ある人には理解することも承認することもできないことがらが満ちみちているのだ。こういう矛盾ばかりのなかで、いったいどうしたらよいだろう。わが子よ、いつもつつしみぶかく用心ぶかくしていることだ。否定することも理解することもできないものを、黙って尊敬し、ただひとり真実を知っている偉大な存在者の前に身をむなしうしてへりくだることだ。
出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社) 今回の終わりに
私の詩「小さな島、あおい星の乳房の」をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。
次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。
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