東日本大震災の被災者の方たちへの支援が懸命に続けられています。安否不明の方、救出を待つ方、亡くなった方、負傷された方、避難生活の方の、悲痛な声に心が痛み、離れた場所で悲しみ、これ以上いのちが失われないことを願い、祈っています。
何とかしてあげたい、少しでも何かできないか、そう思いながら生活の制約からできずにいます。わたしはその大きな思いのなかの一人だと思います。
消防、警察、自治体、救助者、医療従事者の行動力、判断力、忍耐力、意思、決断、献身の姿に、その力が今ある悲しみ苦しみを少しでも和らげ克服してくれるよう、願い、祈っている一人です。
「とてもつかれていたらやすんでください、しぜんにげんきになれるから、だいじょうぶ、きっとだいじょうぶ。」
詩人として私を見つめると、文学は悲痛な悲しみを目の当たりにしてその目の前の悲しみには限りなく無力だと感じます。被災し救出された後も、親や身近な方を必死に探しながら所在がわからず泣いている方が今いるのに、その心が裂ける痛みに何もできません。
私も避難していたあの同じ時間に過酷な状況に突然巻き込まれてしまい今も苦しんでいる方を思うと、言葉を失います。
文学は、今を変える力は微かで、効用、実利からはやはり遠いものであり、その即効力が不可欠な人には、あまり役に立ちません。
けれど、同じ時間にいる方の悲しみに何もしてあげられなくて本当に悲しい、慰めてあげられる言葉さえ見つからず悔しい、嘘であってほしいと、深く思い沈み心を共にふるわせ祈ることだけはできます。その思いには、悲痛な今を変える直接の力はありませんが、人間にとってあったほうがより良いものであることは確かです。
悲しみをどうすることもできない今を、同じ時間に、そばで、まわりで、感じとりたい、見守りたい、わかってあげたい、そしてゆっくりとでも何とか悲しみから抜け出してほしい、頑張ってほしい、と願う心は、人間にとって大切な何かであることだけは確かです。
詩歌、文学が、無力で効用も実利も得られないものであるのにも拘わらず、決して無くならずに受け渡さてきたのは、この人間にとって失ってはいけない思い、願い、祈りが織り込められて生み出されてきたものだからだと私は思います。
人が深い悲しみから静かに顔を上げゆっくり立ち上がり、砕かれた心の破片をもう一度拾い集め繋ぎ合わせたいと願うとき、そっと見守り、手を添え、掌で包み、温め、守ろうとする何より大切なものが、本物の文学には必ずあるからだと、私は思います。
◎『源氏物語』の加持祈祷 源氏物語を読むと、天災、重い病、不慮の死に直面した人たちが、加持祈祷にすがりつく姿が、何度も何度も描かれています。私が未熟な時には「迷信を何でこんなに書くんだろう」と思ったこともありましたが、私が何もできずに今どうしようもなく願い祈るのは物語の人たちと変わらない、現代社会にいても人は変わっていない、と感じます。
源氏物語には、生きる人の、ああでもないこうでもないという惑い、行ったり来たりする迷い、嘆息、問いかけが渦巻いています。が、答えはなく、道しるべはなく、結論はわかりません。読みながら私は、ああ、この人たちの思い、嘆息、悲しみは、私と同じなんだ、この物語にそれらを織り込め生きた
紫式部も同じだったんだ、人の思いは千年前も今も変わっていないんだ、と感じずにはいられません。
浮かび沈む思いは変わらずにいのちが途切れず受け渡されてきたんだと想うと、流れ続けてきたいのちの思いに今生きていることを励まされている、と感じます。
その流れに今いると感じながら、文学、詩歌に、その思いと願いと祈りを織り込めて生き、悲しみから顔をあげたいと願う方にそっと手渡すことができれば、そう願い私は詩を書いています。
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