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ルソー『エミール』(一)。眼差し、人間をまっすぐに。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、今回から全11回にわたり、読みとり考えていきます。

 『エミール』は子どもの誕生から成人するまでの教育を主題とした全五篇まであるとても豊かな著作です。
 わたしは青春期にこの著作を読み、たとえば第五篇の「女性は走るようには生まれついていない。女性が逃げるときは、つかまえてもらうためなのだ。」、この一文など(文脈から抜き出すと女性蔑視と誤解される恐れはありますが)、こんな見方もあるのかと驚きずっと忘れられずにいる、そのような言葉に満ちています。

 わたしがもっとも深く共感したのが、今回からみつめる「サヴォワの助任司祭の信仰告白」です。著者ルソーが若い遍歴時代に出会った聖職者との魂の交流から生み出された珠玉の言葉だと私は感じます。『エミール』では、サヴォア生まれの貧しい聖職者の言葉として書かれていますが、明らかに、ルソー自身の宇宙観、世界観、宗教観が、奔流のように流れていて、魂を揺さぶられる思いがするのは、初めて読んだ二十代、宗教、信仰に思い悩み苦しみ始めた二十代のときも、著者ルソーがこの著書を書き終えた年齢となってしまったいまも変わりません。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の流れの中から、私の魂を特に揺さぶり、想い、考えずにはいられないと感じる、主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。全11回と長くなりますが、どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 初回は、ルソーが哲学者たちの言説と態度、生き方について根本的な批判を述べた箇所です。
 
 ルソーの、哲学者たちに対しての言葉は、深く、鋭く、隠されている嘘、ごまかしを暴き出さずにはいません。この眼差しは、「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の全体を貫き流れています。だからこそ、私は彼の言葉に惹かれ、共感せずにはいられません。

 二十歳前後のころから、私は精神的にかなりさ迷いました。文学は当然ですが、哲学書や宗教書に「真理」を探し求めました。いまも、そうしてしまう心のあり方は、少しもかわっていません。ただ人間には「真理」をもとめることはできても確信することは不可能なのなら、そのことに謙虚な「真実」に生きよう、と考えています。さ迷いの苦しみのなかで、その道標になってくれたのが、今回読み返している『エミール』です。

 ここでルソーが、哲学者たちとして描いている姿については、私は、アカデミックな学者、社会科学者、自然科学者、そして宗教家についてもあてはまると、思います。
 辛辣ですが、引用した次の言葉など、権威的な見せかけを、刺し貫いていると私は思います。

 「彼らはみな傲慢で、断定的で、独断的で、彼らのいわゆる懐疑主義においてさえもそうであって、知らないものはなに一つなく、なに一つ証明せず、おたがいに嘲笑しあっている。」
 「全体の小部分にすぎない身でいながら、われわれはその全体そのものが何であるか、また、その全体にたいしてわれわれはどういう関係に立っているかを決定しようとのぞむほどに、うぬぼれているのだ。」
 「かんじんなことは、他人と違った考え方をすることだ。信仰者のあいだでは、彼は無神論者になるが、無神論者のあいだにはいれば、信仰者になるにちがいない。」
 私は、自信に満ちて「真理」を語る人間を、疑います。
 どうして、そんなに「傲慢で、断定的で、独断的」に、自分の考えを私に押しつけられるのだろうと不思議でならず、人間なのに「うぬぼれているのだ」と感じてしまいます。

 もし「哲学する」ということに意味があるなら、「傲慢で、断定的で、独断的」で、「うぬぼれてい」ては、人間も、宇宙も、世界も、社会も、宗教も、とらえることができないと知ること、それだけが出発点ではないかと、私は考えています。

 ルソーは人間であること、人間として生きることを、とてもまっすぐに見据える眼差しを持っています。だから彼の心は、心にまっすぐ響いてきます。こだまします。魅力的です。

 私の出発点、最初の詩集『死と生の交わり』の巻頭詩「ねがい」を、今回はこだまさせます。(作品名をクリックしてお読み頂けます)。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 わたしは哲学者たちの書物を参照してみた。彼らの著作をひもとき、彼らのさまざまな意見をしらべてみた。彼らはみな傲慢で、断定的で、独断的で、彼らのいわゆる懐疑主義においてさえもそうであって、知らないものはなに一つなく、なに一つ証明せず、おたがいに嘲笑しあっていることをわたしは知った。
(略)
 わたしは、人間精神の不完全さというものが、こういうような意見の驚くべき多様性を生んだ第一の原因であり、傲慢ということがその第二の原因であることがわかった。
(略)
 その限界がわれわれには知りえない一つの広大な全体があって、その創造主はそれについてわれわれにばかばかしい議論をかってにさせておくのだが、その全体の小部分にすぎない身でいながら、われわれはその全体そのものが何であるか、また、その全体にたいしてわれわれはどういう関係に立っているかを決定しようとのぞむほどに、うぬぼれているのだ。
 たとえ哲学者たちが真理を発見することができようとも、彼らのうちのだれが真理に関心をいだくだろうか。どの哲学者も、自分の体系がほかの体系よりも立派な根拠の上に立っているのではないことをよく承知しているけれども、それが自分の体系であるという理由から、それを主張する。たまたま真実のものと虚偽のものを知っていても、自分の見つけた虚偽をすてても、他人の発見した真理をとりあげるような者は、ただのひとりもいない。自分の名声のためには、すすんで人類をもあざむくというようなことのない哲学者がどこにいるだろう。自分の心ひそかに、名声をあげること以外の目的をめざしているような者がどこにいよう。一般の人の上にぬきんでさえすれば、また、競争者たちの光彩を消してしまいさえすれば、彼はそのうえ何を望むことがあろう。かんじんなことは、他人と違った考え方をすることだ。信仰者のあいだでは、彼は無神論者になるが、無神論者のあいだにはいれば、信仰者になるにちがいない。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。


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 『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。
(A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
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    詩集 こころうた こころ絵ほん

 イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
    こだまのこだま 動画  

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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