Entries

ルソー『エミール』(三)わからなくなればなるほど、わたしは。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、読み感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の流れの中から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ私の魂を特に揺さぶり、想い、考えずにはいられないと感じる、主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は3回目、宇宙の秩序からルソーが、至高の知性を想う箇所です。

 ルソーは次のように述べます。
「宇宙の明白な秩序から至高の知性を暗示されないものがあろうか。」
「それが何であろうとも、宇宙を動かし、あらゆるものを秩序づけるこの存在、それをわたしは神と呼ぶ。」

 私自身は「神」という名称はあまり好きではありません。人間の歴史のなかで、泥まみれにされ、手垢にまみれ、宗教戦争、宗派抗争の大義の旗印などに、おそろしいほどに悪用されてきたからです。
(幼子が無心に「かみさま」と声にするのは好きです。それ以外は無理に単語を貼り付けずただ想い念じるほうが私の心には近しく感じます。このあたりの想いは続くエッセイで書いていきます。)

 けれども、ルソーがその語でなんとか指し示そうとする、「至高の知性」という何者かを想わずにはいられません。ですから、私はその存在を定義づけ信仰するという明言より、次のような人間らし言葉のほうに偽りなさを感じて惹かれ共感します。
「だからといって、わたしが神なる名称をあたえた存在がわたしに前よりわかりやすくなりはしない。その存在は、わたしの感官からもわたしの悟性からもひとしくかくされている。」
「結局、わたしは神の無限の本質を凝視しようと努めれば努めるほど、いっそうその本質がわからなくなる。しかし、神は存在する、それでわたしには十分だ。神がわからなくなればなるほど、わたしは神を崇拝する。」

 ルソーのこの信仰告白の一節の言葉は、ニュートンの言葉とも深く響き合っています。
ニュートンは主著『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』で万有引力を精緻に証明し尽くした後、万有引力の「原因」の仮設はたてない、なぜそうであるのかはわからないと謙虚に、「一般的注解」として次のように書き記しています。
「支配も、摂理も、目的因もない神は、運命や自然以外のなにものでもありません。(略)さまざまな場所さまざまな時刻にちりばめられた全事物の種々相は、ひとり必然的存在の想念と意志とからのみ生じえたところでしょう。」(出典:『自然哲学の数学的諸原理』)

 ルソーのいう「至高の知性」、ニュートンのいう「必然的存在」、夜空を、宇宙を見あげ、想い、感じるとき、「かくされている」その存在を感じるかどうかに、信仰の境界線があると、私は思います。このことについては、強要、押付けも、明言、告白を強いることも、ほんとうはできないのではないかと思います。
 人間の、心、想いはゆれるもの。宇宙に対しての、愛、憎。人としての想いの真実を響かせる人間でありたいと私は思います。次回以降もこの思いをより深めていきます。

 今回の終わりに、私の詩「愛(かな)しみの銀河をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 偏見に曇らせられない眼であって、宇宙の明白な秩序から至高の知性を暗示されないものがあろうか。もろもろの存在間の調和と、各部分が他の部分の保存のために行なっているみごとな協力とを無視しようとするには、どれほど多くの詭弁をつみ重ねなくてはならないことだろう。
(略)
 意欲し、実行しうるこの存在、自力で能動的に働くこの存在、要するに、それが何であろうとも、宇宙を動かし、あらゆるものを秩序づけるこの存在、それをわたしは神と呼ぶ。わたしはこの名称に、叡智と力と意志の観念を集めて結びつけ、それらのものの必然的な結果である善意の観念を結びつける。しかし、だからといって、
わたしが神なる名称をあたえた存在がわたしに前よりわかりやすくなりはしない。その存在は、わたしの感官からもわたしの悟性からもひとしくかくされている。
 (略)
 神は一つの精霊であるというような話を聞くとき、わたしは神の本質をいやしめるこういう評価に対して憤激を覚える。それは神とわたしの魂が同じ性質のものであるからのように見なされているからであり、また、神が唯一の絶対的な存在、自力で感じ、思考し、意志する唯一の真に能動的な存在、われわれが思想、感情、活動力、意志、自由、存在をそれからえている唯一の存在ではないかのように見なされているからである。われわれが自由であるのは、われわれが自由であるように神が望むからにほかならない。そして、解きあかせない神の本体がわれわれの魂にたいする関係は、まさにわれわれの魂がわれわれの肉体にたいする関係に似ている。神が物質、身体、精神、世界を創造したのかどうかについては、わたしは何も知らない。創造という観念は、わたしにとりつくしまもない。わたしの能力にあまるのだ。わたしはこの観念を、自分に理解できる範囲内で信じている。しかし、わたしは神が宇宙とすべて存在するものとを形成したこと、神があらゆるものを作り、あらゆるものに秩序をあたえたことを知っている。神は疑いもなく永遠である。だが、わたしの精神は永遠の観念を理解できるだろうか。なぜ観念のないことばで自分をいいくるめる必要があろう。わたしに考えられることは、神が万物に先立って存在するということ、万物が存在するかぎり存在するだろうということ、そして、いっさいのものがいつか終滅すべきであるとしても、神はその後でさえも存在するだろうということである。
 (略)
 神は聡明である。しかし、どのように聡明であるのか。人間は推理を行なうとき聡明であるが、至高の叡智は、推理する必要がない。至高の叡智にとっては、前提もなければ、結論もないし、命題すらない。それは純粋に直観的であり、すべて存在するものばかりでなく、すべて存在しうるべきものをもひとしく見ている。至高の叡智にとっては、あらゆる真理がただ一つの観念にすぎない。同様に、あらゆる場所がただ一つの点にすぎず、あらゆる時がただ一つの瞬間にすぎない。人間の能力は手段を介して働き、神の力はそれ自体で働く。つまり、神はみずから意欲するから行なうことができる。彼の意志は神の力となる。神は善なる者である。
(略)
 しかし、人間における善意は自分の同胞にたいする愛であり、神の善意は秩序にたいする愛である。というのは、神が存在するものを維持し、各々の部分を全体に結びつけるのは、秩序によってそうするからである。神は正しい。これはわたしの信じて疑わないところだが、そのことは神の善なる者であることの一結果である。人間の不正は人間のしわざであって、神のしわざではない。
 (略)
 結局、わたしは神の無限の本質を凝視しようと努めれば努めるほど、いっそうその本質がわからなくなる。しかし、神は存在する、それでわたしには十分だ。神がわからなくなればなるほど、わたしは神を崇拝する。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。

 ☆ お知らせ ☆

 『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。
(A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
☆ 全国の書店でご注文頂けます(書店のネット注文でも扱われています)。
☆ Amazonでのネット注文がこちらからできます。
    詩集 こころうた こころ絵ほん

 イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
    こだまのこだま 動画  

関連記事
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
https://blog.ainoutanoehon.jp/tb.php/671-60bed05f

トラックバック

Appendix

プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

最新記事