◎物語の誇張と方便 紫式部は、物語には「誇張」が本質的に必要なものだと意識して創作したことが次の言葉からわかります。
「不自然な誇張がしてあると思いながらつり込まれてしまうこともある」「よいことを言おうとすればあくまで誇張してよいことずくめのことを書くし、また一方を引き立てるためには一方のことを極端に悪いことずくめに書く。全然架空のことではなくて、人間のだれにもある美点と欠点が盛られてい るものが小説であると見ればよいかもしれない。」「深さ浅さはあるだろうが、それを皆嘘であると断言することはできない。仏が正しい御心(みこころ)で説いてお置きになった経の中にも方便ということがあって、大悟しない人間はそれを見ると疑問が生じるだろうと思われる。方等経(ほうとうきょう)の中などにはことに方便が多く用いられています。結局は皆同じことになって、菩提(ぼだい)心はよくて、煩悩(ぼんのう)は悪いということが言われてあるのです。つまり小説の中に善悪を書いてあるのがそれにあたる」 物語の作者は「不自然な誇張」によって、極限の状況、日常性が破れた、めったに起きないけれど起きうる時間と場を作りあげます。そうすることで、その場に「つり込まれてしまう」読者に、その状況や場でしか感じ得ない高まり極まった感情、思いのふるえを伝えることができます。
また作者は、「人間のだれにもある美点と欠点」を、「あくまで誇張して」「極端に」際立せ浮かび上がらせることで、読み手の心に強烈な個性、強い特徴をもつ典型を、焼きつけることができることを、紫式部は『源氏物語』で教えてくれます。巻の立て方そのものがそのことを伝えてくれます。多くの巻の中心にひとりの女性がいて、彼女だけの独特な個性の香りを匂わせていて、そこから物語に惹き込まれてゆきます。
『源氏物語』により紫式部は、物語の本質、物語とは何かについて次のように教えてくれます。
人間の歴史であり、人生の、いのちの流れである物語には、美点と欠点、善悪、そのどちらもが入り乱れて描かれてあるということです。
物語は美点だけ、善だけのお話ではないこと、また「菩提(ぼだい)心はよくて、煩悩(ぼんのう)は悪い」という観念だけの説教ではないということです。
物語は、美しさと醜さ、善と悪が入り乱れた人間の生きるありさまを描くものだから、それが真実に迫るものであればあるほど、仏教の方便のように「大悟しない人間はそれを見ると疑問が生じる」ほどに、美点と欠点、善悪は切り離せないまだら模様を描いている、その動くありさまこそ描かれるものだ。
読者はその虚構世界に自らの身を投げ込んで物語の人物とともに、描かれたその世界に醜さ、悪がどうしようもなくあることを知ります。醜と悪のおぞましさに触れざるを得ず、身をも染めざるを得なくなってしまう、悲しみと嘆きにも巻き込まれます。
だからこそ読者は物語の人物とともに、醜さ、悪から抜け出してその向こうに美と善を見たいと心から願い、求めずにはいられなくなります。
そこに息づいているこの思い願いを感じることは生きることそのものではないか、そう問いかけさせるほどまでに心を高め見詰めさせる「方便」こそが物語だと、紫式部は教えてくれます 。
『源氏物語』は涙が溢れたゆたいたぎり深く波打つ、涙の川だと私は感じます。その流れを生み、絶やさないものは、ひとりひとりの女の、男の涙です。
愛するひとへの思慕、愛しあう喜びと悲しみ、愛憎、愛欲にまみれ逃れようとし逃れらえない嘆き、出家し後世をおもう祈りが、浮かび沈みながら光り消え流れてゆく川に人間はいて歴史を生きています。
その川は千年前も今も少しも変わらない姿で、揺らめき光り流れていることを、紫式部の『源氏物語』が教えてくれます。
紫文字引用出典:青空文庫(
http://www.aozora.gr.jp/)入力:上田英代、校正:砂場清隆。
(古典総合研究所(
http://www.genji.co.jp/)の入力ファイル利用)
底本:「全訳源氏物語 中巻」与謝野晶子訳、角川文庫、1971年。
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