気の向くままの寄り道です。今回と次回は
『紫式部日記』を通して『源氏物語』の作者の千年前の思いのうち、私の心を波立たせてくれた彼女の吐息にふれます。
今回は
紫式部が
和泉式部の和歌について記した個所です。
次の言葉が私にはとれも印象的でした。
「
口から出るにまかせたあれこれの歌に、必ず魅力のある一点で、目にとまるものが詠みそえてあります。」
「
実にうまく歌がつい口に出てくるのであろうと、思われるたちの歌人ですね。」
紫式部自身の和歌は『源氏物語』の豊かさに隠されてあまり評価されてこなかったようですが、物語のなかでの創作歌には歌う人間の思いの深さがにじんでいます。また彼女の人柄からか、
穏やかな、もの静かな、落ち着いた内省のまなざしがあって、私は好きです。
とくに宇治十帖の、大君、中の君、浮舟の、悲しむ女性の心の揺れ動く歌には、涙で洗われるような、苦しみと背中合わせの澄み切った美しさ、落ち着きの底にみなぎる激しい狂おしさを感じます。
和泉式部も紫式部も強い独自の魂を彼女にしかできないかたちで表しているので、心の現れでる歌の容姿はことなっていますが、
ふたりはともに深い魂の詩人であることで共鳴しています。
紫式部は日記で、和泉式部の歌の批評力をあまり評価していませんがそれは重要なこととは思いません。大切なのは、紫式部が
和泉式部の歌の本質、歌人としての本性をしっかり捉えていることにあると思います。紫式部の人間をみるまなざし、歌を感じとる心の深さがあらわれていると、私は思います。
◎引用訳文 和泉式部という人こそ、興をそそる手紙をやりとりした人(です)。和泉式部の手紙にはよくない点があるけれど、気楽に手紙を走り書きした時に、その方の[文章の]才のある人で、ちょっとした言葉の美しさも感じられるようです。歌は、うまく趣向をこらすこと、古歌についての知識、歌のよしあしの判断[これらの点では]本当の歌人という感じではないようですが、口から出るにまかせたあれこれの歌に、必ず魅力のある一点で、目にとまるものが詠みそえてあります。そうであっても、人の詠んだ歌を、非難し批評している場合には、さあそれほど歌というものが十分わかってはいないのでしょう、実にうまく歌がつい口に出てくるのであろうと、思われるたちの歌人ですね。気はずかしくなる立派な歌人だなとは思いませんけれど。
☆原文
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたのざえある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌は、いとをかしきこと、ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌よみざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしきひとふしの、目にとまるよみそえはべり。それだに、人のよみたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌のよまるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。はづかしげの歌よみやとはおぼえはべらず。
出典:
『紫式部日記 紫式部集 新潮日本古典集成』(山本利達 校注、1980年、新潮社)(*漢字や記号と訳文は、読みやすいように書き換えた箇所があります。)
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