詩歌と歌謡の交わりを考えています。前回とりあげた神楽歌は主に宮廷儀礼で謡われましたが、そこからあふれでてひろく謡われた流行唄(はやりうた)が
催馬楽(さいばら)です。
私が今回言いたいのは、
紫式部は流行歌も好きだった、という一点です。
まず、『源氏物語』に登場している二曲を引用して催馬楽に触れてみます。
◎引用1
貫河(ぬきかは)
貫河の瀬々(せぜ)の やはら手枕(たまくら) やはらかに 寝(ぬ)る夜(よ)はなくて 親避くる夫(つま)
親避くる夫は ましてるはし しかさらば 矢はぎの市(いち)に 沓(くつ)買ひにかむ
沓買はば 線がいの 細底(ほそしき)を買へ さし履(は)きて 表裳(うはも)とり着て 宮路(みやぢ)かよはむ
<訳:
貫河の、浅瀬浅瀬のふちに生えている小菅。その小菅のような、やわらかな手枕。
やわらかな手枕をまいて、のんびりと寝る夜とてはない、親が許さないあのおひと。
親が許さなければ許さないほど、いよいよいとしいあのおひと。
(会えぬ間に、遠い都へ召されるおひと。)
それならば、矢はぎの市に、わら沓を買いに行きましょう。
沓を買うなら、ひものついている細身の沓を買いましょう。
細身の沓をはいて、腰衣をつけて、さっそうと、都大路を歩きましょう。>
梅が枝(え)
梅が枝に 来(き)居(ゐ)る鶯(うぐひす) や 春かけて はれ
春かけて 鳴けどもいまだ や 雪は降りつつ
あはれ そこよしや 雪は降りつつ
<訳:
梅の枝に来て留まっている鶯。それが春にかけて、鳴いているけれど、その
春にかけて、雪が降り降りしていることだ。> 「貫河」は現在のポップス、歌謡曲、演歌と同じような歌詞で、千年前も今も変わらない恋の情を謡っている、と私は感じます。「梅が枝」は囃し詞(はやしことば)が、のびやかな歌声を伝えてくれます。どちらも当時の人たちが気持ちよく謡っていたのが、わかる気がします。
私は『源氏物語』の与謝野晶子訳を読んで、催馬楽が物語のいろんなところにちりばめられ描かれているのがとても印象的でした。物語の作者として意識的効果的に描写した側面とは別に、紫式部自身が彼女の周囲の人たちと同じように、当時の
流行唄(はやりうた)の催馬楽が好きだったのだと思います。(彼女の
『紫式部日記』にも歌と楽曲を楽しんだ様子が記されています。)
出典の
仲井幸二郎「源氏物語と催馬楽」は、このことを次のように教えてくれます。
>◎引用2 「(略)『源氏物語』の中に、催馬楽(さいばら)はこのように散見できるのであるが、その数はのべにして五十六曲、曲目数としても二十三曲に及んでいる。歌詞の現存する催馬楽が六十一曲として、訳三分の一強の曲目が『源氏物語』に取り込まれているということになる。
逆に
『源氏物語』五十四帖の本文のうち、催馬楽がなんらかの形で登場する巻々が二十九巻あるから、これも半数以上の巻に見られる(略)。
『源氏物語』の中におりにふれて口ずさまれたり、和歌に引用されたりするということは、『源氏物語』の作者を中心とする宮廷生活の中には常識的に謡われる歌であったということであろう。
催馬楽はいわば民謡風な歌を、外来の雅楽調に編曲して謡うものであり、したがってそれ自体も呂(りょ)調と律(りつ)調に分かれている。(略)
催馬楽が『源氏物語』の中に謡われるチャンスには、大きく分けて二通りの場合が考えられる。
一つは
宮廷の御遊や、貴族邸の管弦の遊びに、琵琶・筝(そう)の琴(こと)・琴(きん)の琴(こと)・あずま琴などの楽器により演奏され、それに合わせて謡う、いわば正式な宴席における歌としての催馬楽であり、いま一つは、
伴奏もせいぜい笛か、扇拍子程度の、気楽に謡うときとか、女のもとを訪れるときの手段の一つとして利用するなど、いわば鼻歌とか、口ずさみふうに謡われる場合である。」
紫式部と歌謡曲。ともすれば日本の文学の正統系譜のど真ん中にいる紫式部や『源氏物語』、優れた伝統作品は尊いものとして神聖視されがちですが、私は彼女も一人の女性として生きていたこと、当時流行っていた俗な歌も楽しんでいたことを、見失わずにいたいと思います。このことは他の優れた歌人たちについても同じようにいえます。(時代は大きく跳びますが、たとえば宮澤賢治の作品や生き方を私はとても好きですが、彼のすべてを神聖視するかのような批評は逆に生身の彼を貶めているのではないかと私は感じます)。
でも紫式部は
『源氏物語』を794首もの創作和歌を美しく連ねた歌物語として織りあげたことも確かです。
『源氏物語』は
聖と俗のあわいを揺れ動く人間を捉えているからこそ、豊かな真実を伝えてくれます。それができたのは作者がそのどちらをも心魂に抱えていて感じることができたからです。
詩歌もまた歌謡と厳格には切り分けられない心の聖と俗に生まれでて響いているものです。俗な部分がないかのように目隠しをし、
歌の情をそぎ落とした詩は、貧しく干乾び枯れてしまうと、私は思います。
催馬楽を通して、著者はさらに、民謡の芸謡化と専門家の登場、催馬楽が芸謡でありつつひろく流行唄(はやりうた)として愛唱されたことなど、人にとって歌謡もまたいつの時代もなくてはならないものであったこと、あり続けることを、教えてくれます。
>◎引用3 「『源氏物語』に登場する催馬楽のありようは、催馬楽が芸謡としての様相を見せていることを思わせる。すなわち、芸謡と考えられるものとは、民間の労働の歌や祝い歌が琵琶や三味線にのせられ、専門の芸能者の歌となったものであるが、
催馬楽もまた、民謡として謡われていた歌が、儀礼的な宴会の場の歌として謡われたことがまず第一にある。(略)
催馬楽もまた、
手拍子、扇拍子の民間の歌が、楽器を伴奏にして、雅楽の調子にのせて謡われるようになったものである。このように謡うにしても演奏するにしても、その専門家の現れたことが、催馬楽の芸謡化の顕著な姿であった。
雅楽寮(うたづかさ)という、音楽の専門家を抱える役所が宮廷の御遊などの音楽面の担当者であり、『源氏物語』「胡蝶」の巻などには六条院の舟楽に召されている記事が見える。あるいは「唱歌(そうが)の人々」(若菜上)、「声よき人」(明石)などの記事は、催馬楽を謡った専門家の存在を思わせるものである。 民謡は本来、名もなき人々の集団が謡い伝えた歌であった。それが別な目的を見出して特定な専門家の歌となったり、楽器の伴奏を伴うようになったりしたとき、すでに芸謡化したと考えてよい。とすれば催馬楽もまた一種の芸謡であり、しかも専門家の手にとどまることなく、
宮廷を中心として愛唱され、いわゆる流行唄(はやりうた)的な性格を持っていたものであることを、『源氏物語』の記述は伝えているといえる。」
次回は、『紫式部日記』に気の向くまま寄り道します。
出典:
「源氏物語と催馬楽」仲井幸二郎 『鑑賞 日本古典文学 歌謡Ⅰ』(1975年、角川書店)。(*漢字や記号は、読みやすいように書き換えた箇所があります。)
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