詩歌と歌謡の交わりを主題に、古代歌謡の豊かな姿をみつめました。今回は続く時代、『古今和歌集』がまとめられ短歌の規範が確立された時期に生まれた歌謡である
神楽歌(かぐらうた)を見つめます。(神楽歌と関係のふかい催馬楽(さいばら)については次回取り上げます。)
私自身が、古代歌謡には親しみを抱いてきましたが、神楽歌と催馬楽については、そのようなものがあった、ということくらいしか知りませんでした。まず、どのようなものだったか、イメージできるよう、出典から一首を引用します。出典の
著者、池田弥三郎は、このタイプの神楽歌の特徴を次のように教えてくれます。
◎引用1
難波潟(なにはがた)
本 難波潟(なにはがた) 潮満ち来れば 海人衣(あまごろも)
末 海人衣 田蓑(たみの)の島に 鶴(たづ)立ち渡る 「大前張(おほさいばり)の中でも、(略)四首は、すべて
形式は短歌であって、
上の三句を本方が歌い、第三句を繰り返して下の句へ続けて末方が歌う。そういう歌い方をする短歌形式のものが、前張の中でも、最も大事なものだったのだろう。」
このように、短歌と似通う点をもちながら、神楽歌は、声を出し曲のふしにのせて歌われた歌謡です。形式もこれだけではなく、囃し詞(はやしことば)も様々です。著者の以下の引用の言葉も、歌謡の特徴をよくとらえています。
◎引用2 「歌謡の伝承 歌われる歌は、その
文句の意味を理解しながら歌うということは少なくて、ふしに乗って、合理解を加えながら歌っていくから、形の変化は思いがけない形に走っていってしまう。(略)しかし、歌っている人々は
細かい意味の追求はしないで、漠然と気分的に理解しているのだろう。」
たとえば幼児向けの流行歌はあっという間に全国中で元気に楽しく口ずさまれますが、幼児たちは言葉の意味はあまり理解していません。曲にのった言葉を音として心から楽しみます。これが歌のいちばんの良さだと、わたしは思います。
そのような歌謡の特徴、良さは、歌うその時の心をときめかせ輝きますが、
伝承するための表記の点で絶えず次のような問題を孕んでいました。(音と声を記録する録音技術が手にされた20世紀以降、この問題は小さくなりましたが)。
歌謡が
どのように書き留められたか、誤った理解をしないよう、注意する必要があるということです。若干長くなりますが、この点の興味深い著者の考察を引用します。
◎引用3 「(略)作品としての神楽歌、ならびに催馬楽を考えた場合、その
歌詞の記載にあたっては、
どこまで、それが歌われた場合の形を留めるべきか、ということについての処理の問題がある。
例を挙げてみよう。例えば
「採物」の『榊(さかき)』の形である。
まず
『鍋島家本神楽歌』(三一書房刊『日本庶民文化史料集成』第一巻所収)によれば、― (略)
○榊
本
さかきばのーーーーーーーーーかーーーーをーーーかーーーぐーーーはーーーーしーーーーみーーーーとめくればーーーーーー八ーーーそーーーーうーーーーぢーーーびーーとーーーぞーーーまとーーーーゐーせーーーりーーーけーーーーるーーーまーーーとーーゐーーーーせりける
末方 おけ あちめ おーーー
本方 おけこういう形である。(略)
しかし、今まで、一般的には、神楽歌としては、右の形としては採録されていない。従来の採録の形はおよそ次の形である。― 今、仮に
小西甚一氏による岩波版『日本古典文学大系本』を挙げる。―
本
榊葉の 香をかぐはしみ 求め来れば 八十氏人ぞ 円居せりける 円居せりける この採録の方針は、譜本的な特質は一応見送り、呪術的に繰り返される『阿知女作法』除くが、第五句の繰り返しは採録し、本方・末方の発唱担当は記し留めておく、ということである。
そして第三の形としては、この歌の場合は、
『拾遺和歌集』に神楽歌として採録してあって、それは
短歌として、
榊葉の香を香はしみ 覓(もと)め来れば八十氏人ぞ円居せりけるとなっている。
さて、右の三様の記録の、そのそれぞれを右の順に(1)・(2)・(3)とすれば、神楽歌・催馬楽の歌詞は、もし思い切って整理して、素材的なものに還元して、(3)の形をとるとすれば、多くは短歌の形のものになってしまい、そのあるものは、片歌・旋頭歌の形となってしまう。しかしそれではあまりに、いわゆる歌謡の形と離れてしまい、
謡い物としてのおもかげと絶縁してしまうというところから、(1)の形までは戻らずに、(1)と(3)との妥協の形として、従来は多く、(2)の形をとってきたわけである。(略)
実はこのことは、逆に
『万葉集』採録の歌が、(3)の形であって、中には(2)、もしくは(1)の形への還元ということを念頭におかなければならぬ歌もあるのだという、重要な暗示を、われわれに与えないではいない。」
著者のこの最後の指摘は、古代の歌謡と詩歌の交わりの深さを教えてくれます。
『万葉集』のなかの、東歌(あづまうた)をはじめとする民謡調の歌は、記された姿の短歌であると同時に、またはその源流で歌謡として謡われてもいた、ということです。
このことは逆からみると、ある時に、
歌謡は、文字で書くことを主として謡わずに詠むだけの短歌と、枝分かれした、とも捉えられます。著者は、
『古今和歌集』の編纂過程に、その分岐点があったと述べます。この勅撰集は、理知と機知で巧みに練り上げた言葉を評価する、歌から遠ざかる方向に向かっています。
民謡と短歌、謡う歌と書きとめる歌の別れは、歌謡と詩歌の別れでもあったのだと、私も思います。
◎引用4「(略)はじめ『続万葉集』という名だったらしい書名が、急に、
『古今和歌集』となったことの、隠れたいきさつである。
つまり一千首という、区切りのいい数の「今」の歌。それは『古今和歌集』という名の
「和歌」にふさわしい、音楽・声楽と絶縁して、文字によって、紙の上に固定した、撰者らの文学観によって支持されている歌に対して、むしろ、『続万葉集』という名の「万葉」にふさわしい、選者らの文学観以前の、
紙の上に固定しないで、口唱せられ、発唱せられることによって、はじめてその目的を達成した、「古」に該当する歌とが、一つの選集の中に併存しているという事情である。
そして、この意味での「古き歌」は、
『古今和歌集』の巻二〇を最期として、少なくとも、文学としての短歌の世界からは、離脱していってしまう。『古今和歌集』が、『続万葉集』の名を捨てて、その名を採用したときに、古き歌の排除は宣言せられたのだが、なお、捨てられずに、尾骨のごとくに残ったのが、巻二〇であった。」
独立して分かれた後も、歌謡と詩歌はすぐそばで交わり続けながら、新しい歌を生み出してきました。
次回は、神楽歌から派生した催馬楽(さいばら)を通してその姿を見つめたいと思います。
出典:
「神楽歌・催馬楽 総説、本文鑑賞」池田弥三郎『鑑賞 日本古典文学 歌謡Ⅰ』(1975年、角川書店)。
(*漢字や記号は、読みやすいように書き換えた箇所があります。)
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