室町小歌の豊かな歌謡の世界を『閑吟集』『宗安小歌集』をとおして聴きとってきました。その流れを受けて生まれた
隆達節歌謡を今回はみつめ感じとります。
隆達節歌謡は
「洒落た音曲」だと私は感じます。
総説に書かれている通り、「海外へ開かれた商港であり、人口数万を擁し、町家と呼ばれる富裕な商人の活躍した経済都市」である堺の空気に響いた、「技巧的で軽みを帯びた洒脱な」歌、十六世紀のころの
町衆文化に咲いた花です。
隆達節歌謡(小歌・草歌)は、
「大半が男女間の恋慕の種々相を歌った抒情味深い」短唱です。 「尺八・小鼓などを伴奏に、三味線にも合わせて」町の人びとは心ゆらして歌ったのだと思います。
出典の
著者新間進一がいうように、室町小歌があかぬけたようなこの歌を、
「すっきりとした優美の情趣を買うか、頽廃につながる消極さや厭味を嗅ぎとるか」は、聴き取る者・読者の好みによると、私も思います。(私の心は室町小歌により惹かれます)。
近世に入って、
女歌舞伎踊歌や『松の葉』第一巻に影響を与え、「その他
お座敷唄・踊り歌・民謡など広い範囲で」歌心は交わりあいました。「江戸中期には弄斎や投節・端唄など、さまざまな流行歌謡に移ってゆく。」
流行歌のはやりとすたり、めまぐるしい移り変わりは、昔も今も変わらず、人の一生の短い浮き沈みと裏表の流れのようです。著者はそれを
「歌謡の運命」と言い、この言葉は私の想いにじんわり広がります。
隆達節歌謡の影響の中で生まれた近世の『松の葉』が、今度は近代の詩歌に影響を与えました。
「明治の末ごろ耽美派文学の若い詩人たちが、
上田敏を介して『松の葉』を愛読」したこと、
北原白秋、吉井勇、与謝野寛の詩を通してその受容の姿を伝えてくれた記述に、私は心、文化が、受け継がれ生き続ける姿を教えられ感銘を受けます。
隆達節歌謡に「
近代歌謡と類想のもの」があるのは、「時代を超えて流れる心情の機微なのであろう。「涙」「面影」「別れ」などを主要要素とする「
現在の歌謡曲とも、隆達小歌は意外とつながっているかもしれない。」という著者の言葉に、私は共感します。
私は、歌謡、詩歌を育む心は、途絶えることなくつながっていると思います。時代のうねりのなか浮き沈む心を、表情に浮かべながら。
今後、『田植草紙』などの近世の歌謡にも耳をすませとりあげたいと思います。
●以下は出典からの引用です。◎総説
☆高三(たかさぶ)隆達
『閑吟集』が撰ばれたのは十六世紀の初めであったが、同世紀の終わりから
十七世紀初頭にかけて(文禄・慶長のころ)、隆達節歌謡が流行した。これは従来の小歌を嗜(たしな)み、自らも歌詞を作り曲調を完成したらしい高三隆達の名を冠したものである。『閑吟集』の小歌は、さらに洗練され、円熟度を増すに至った。
中世において海外へ開かれた商港であり、人口数万を擁し、町家と呼ばれる富裕な商人の活躍した経済都市でもあった和泉国
堺の街には、室町中・後期、京・奈良に劣らず文化の華が開いていた。連歌師牡丹花肖柏が最晩年この地に移り住み、多くの弟子を育てたこと、武野紹(じょうおう)・千利休らの茶の湯が流行したことなど、特筆されよう。
芸能面では十六世紀のころ
風流踊りが盛んになり、
尺八が喜ばれ、やがて
三味線の渡来もあって、
町衆文化にふさわしい洒落た音曲への関心が高まっている。
☆歌謡の内容・表現
隆達節歌謡(小歌・草歌)をひっくるめて、その文芸性を見てみたい。概括すれば『閑吟集』『宗安小歌集』の世界とそう径庭(けいてい)のあるものではない。所詮、中世歌謡圏に属していて、
大半が男女間の恋慕の種々相を歌った抒情味深いものである。興味を惹かれるのは、
近代歌謡と類想のものがあることで、二、三、例示すると、
待つ人も来もせで 月は出たよのは、竹久夢二の小曲「待てど暮せど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな」の裏返しの発想である。
恋をせば さて年寄らざるさきにめさりよ 誰か再び花咲かん 恋は若い時のものぢや 若い時のものよの歌では、「命短し恋せよ乙女」の「ゴンドラの唄」(吉井勇)を連想する。こういうことは、
時代を超えて流れる心情の機微なのであろう。「涙」「面影」「別れ」などを主要要素とする現在の歌謡曲とも、隆達小歌は意外とつながっているかもしれない。(略)
すっきりとした優美の情趣を買うか、頽廃につながる消極さや厭味を嗅ぎとるか、ということであろう。(略)
☆近世歌謡への展開
音曲としての隆達は、扇拍子・一節切(ひとよぎり)
尺八・小鼓などを伴奏に歌われたものであろう。歌詞の中に、それらを詠みこんだ作もある。
尺八の 一節切こそ 音(ね)もよけれ 君と一夜は 寝も足らぬ 手に手をしめて ほとほと叩く 我はそなたの小鼓よ 歌詞の類縁歌謡をたどるとき、後世によく知られた歌や文句が隆達小歌に出ていることが多い。たとえば「濡れぬ先こそ 露をもいとへ 濡れての後には ともかくも」「花は散りても又も咲く 君と我とはひととせよ」などをあげられる。
岩瀬醒『近世事跡考』などによると、隆達節は元禄のころまで残っており、また
三味線にも合わせて歌われるようになったらしい。
『松の葉』巻一にはこの歌の影響があり、その他
お座敷唄・踊り歌・民謡など広い範囲で類歌を生じている。
歌謡の運命として、江戸中期には弄斎や投節・端唄など、さまざまな流行歌謡に移ってゆく。その中で歌沢が近世末期に興り、洗練された曲調を志向して隆達を自派の祖と仰いだことは興味が深い。(略)
◎本文鑑賞
思い切れとは 身のままか 誰かは切らん 恋の道 (日本古典文学大系2・日本古典全書94)
【訳】思い切れとは自分勝手な言いぐさだ。だれが切れようか、この恋の道ばかりは。
(略)「恋の道」は、「恋路」ともいい、ともに古い歌謡であり、さまざまな連想を自然と呼びよせる。(略)
さらに隆達小歌の中で「恋路」を歌ったものを示せば、
思ひ切らねば 恋の路を 身をやつさじ 人も恨みじ
恋路ほど もの憂きものは 世にあらじ 逢はねば見たう 逢へば別るる
とぶ蛍 なにを思ひて 身をこがす 我は恋路に身をやつす
山の端にこそ 月はあれ 恋の道には 月もなやとさまざまに歌っている。
技巧的で軽みを帯びた洒脱な言い方はあるが、恋の切なさ・苦しさをどれも歌っている。(略)
本歌に戻って、後代歌謡への展開を考えると、寛文・延宝のころの集かといわれる『当世小歌揃』(『日本歌謡集成』巻六の「平九本ぶし」十三首の中に、このままの形で入りこんでいる。また前引の「山の端にこそ 月はあれ」もあわせて載っている。
そのほか『延享五年小歌しやうが集』(『続日本歌謡集成』巻三)には「思ひ切れとは死ねとの事か 死なにや思ひの根は切れぬ」の歌があって、違った形での発展を示している。
情かけふ物 くやしやな なんぼう恋には 身がほそる 【訳】情をかけようものを、残念なことだよ。何ほどか恋をしていると、わが身が痩せ細るよ。
(略)「なんぼう恋には 身がほそる」は近世に入って、組歌ふうに用いられて成長してゆく。
まず
女歌舞伎踊歌(天理図書館蔵『おどり』所収)の「伏見踊」のうちに「伏見恋しうて出でて見れば 伏見隠しの霧が降る なんぼ恋には身が細る 二重の帯が三重廻る(下略)として出ている。
『松の葉』第一巻、裏組の中に「月は八幡(やわた)のまだ空にも往(い)のいのとは思へども 後(あと)に心がとどまりて 後(うしろ)髪が引かるる なんぼ恋には身が細ろ 二重の帯が三重まはる」の作がある。
明治の末ごろ耽美派文学の若い詩人たちが、上田敏を介して『松の葉』を愛読した。
白秋の歌集『桐の花』の中の詞書に、この「なんぼ恋には・・・・・・」の句をさりげなく挿入して、歌集の効果を引き立てている。
吉井勇の歌に有名な「夏の帯砂(いさご)のうへにながながと解きてかこちぬ身さへ細るとや」や「しら玉の君はわれゆゑ身が細るわれは君ゆゑいのちが細る」など、この『松の葉』調を摂取している。
さらにふたりの師匠格にあたる
与謝野寛の小曲(五行詩)に、「帯を解く君云ひぬ/『この細れるをみたまへ』と。/朝の別れに君云ひぬ、/『忘れたまふな海ごしに/二十日の月の黄ばめるを』」(『の葉』所収)の絶唱もある。これには『松の葉』の情趣の近代化が見える。
話が多岐にわたったが、再び近世歌謡に戻る。
民謡集『山家鳥虫歌』の河内の民謡に、「こなた思ふたらこれほど痩せた 二重廻りが三重廻る」というのがあるが、隆達や『松の葉』の「なんぼう恋には身がほそる」の表現と比べて品が落ちることは明らかであろう。
出典:新間進一「隆達節歌謡 総説、本文鑑賞」『鑑賞 日本古典文学 第15巻 歌謡Ⅱ』(1977年、角川書店)* 読みやすいよう、ふりがな、数字、記号、改行などの表記を変えた箇所があります。
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