ここのところ500年くらいの時をさかのぼり歌心の交わりをしていましたが、すこしより近い時代に戻って、このまるい星のうえで海を越えた大陸の歌心との交わりをエッセイに記します。
二十歳前の文学を志しもがいていた頃、私は
中原中也のまねをして東京御茶ノ水のアテネフランセというフランス語学校に通い
フランス詩を学んだことがありました。象徴派の詩人たち、
ランボーやヴェルレーヌの詩、マラルメやヴァレリーの詩と詩論に親しみました。
語学は精神がとても不安定で習得できませんでしたが、フランス詩の言葉の響きと語感を、心の襞でふれたことに意味があったのではと今も思います。
フランス語のR音の吐息のようなふるえ、かすれる響き、哀しい声が好きになり、ヌーヴェルヴァーグのゴダールなどの映画を良く見て、女性の声の美しく優しい響きを聴くのがとても好きでした。
ランボーの詩の朗読のカセットテープ(今のCD)を繰り返し聞いて、自分も声を出して朗読したりしました。
詩が言葉の美しい音楽だということを、マラルメの詩論にも教えられましたが、それ以上に、彼らの詩の響きに直接触れたことで美しいという感動として、心にいつまでも消えない音楽をもらったと思います。
詩はゆたりゆたりとした歌だといった
中原中也の言葉を以前記しましたが(
中原中也の「ゆたりゆたり」)、たぶん同じことを彼もフランスの詩人たちの詩に感じていた気がします。
そのように感じて感動したからこそ、
日本語の言葉の語感、詩の響きに心の耳を澄ますことの大切さ、それが詩歌のとても自然な姿だということを忘れられなくなったのだと、私は思います。
詩の音楽について、今度はお隣の国ドイツを訪ね、詩人たちの歌心にふれ聴きとりたいと思います。
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