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マラルメの詩論(一)語の音色。

 ポオの詩論に続いて、彼に強い影響を受けたフランスの詩人・ステファヌ・マラルメの詩論をみつめます。彼の詩「海の微風」は別のエッセイで咲かせています。(La mer 海、フランスの好きな詩)。
 出典のマラルメの言葉を、5つのテーマに要約したあと、彼の言葉に木霊する私の詩想を☆印のあとに記していきます。   

1.言語の音楽・自由詩(マラルメ詩論の要約)

 「音楽」が、この宇宙の万物の相関関係を全部あらわすという本来の機能を発揮し、その充実した明らかな姿で現われるのは、けっして金管、絃、木管などから出るなまの音響によるのではなく、最高度に達した時の知的な言語の働きによる。
 外形から見た詩篇の特徴とは、詩句が共通の拍子をもっていることと、それを最後に結び合わせる韻の一撃である。
 フランスの詩歌の魅惑は脚韻の効果が大きい。
 新しい韻の組み合せは使いふるすにつれ常套的な繰り返しになり倦怠が生まれる。
 散文と詩句はロマン派の強力な聴力によって、規則正しい区切りと、詩句の跨がりを特徴とする十二音綴詩句(アレクサンドラン)の中で結びつけられたが分解して独立し、「自由詩」が発見された。
 自由詩は、耳で聞いて快いという条件を満たす限り、音綴の数を好きなように、音色をあらゆる可能な組み合せ、誰でも自分独自の演奏法と聴覚で自分の楽器を演奏し「国語」に捧げることができる。詩人の一人一人が、自分に合った調子を見つけ、そこへ転調してうたう。
 人間の魂はすべて律動の糸のかたまり、一つの旋律だからふたたびつなぎ合わせればよい。
 厳密な詩句の記憶が無意識のうちに残っているので、故意の規則違反や意識しての不協和音が微妙な感受性に訴える。

☆ 私の木霊
 マラルメの詩論には、詩は音楽だ、言葉による音楽だというに留まらず、詩の音楽こそが宇宙の万物の響きあいをあらわす本来の音楽だ、という信念があります。だから、耳に快いという条件はとても大切なことで、そのかたちを探ることの積み重ねが詩の伝統そのものだといえます。自由詩は伝統的な定型詩の記憶のうえに形作られていることがよくわかります。
 日本の詩歌の場合、古代歌謡の自由律から五七調、七五調への変遷、三十一文字の和歌から連歌へ、十七文字の俳諧への移り変わり、音数律での字余りの効果などが、マラルメのこれらの視点と重なっていると私は考えます。

2.語の音色(マラルメ詩論の要約)

 人間の言語がかならずしも、声という楽器のもっている色彩と外観で対象を声という楽器でふさわしく表現していないのを残念に思う。
 半透明の音色をもった ombre(影)という語の横では、明るい音色をもったtnbres (闇)という語はあまり暗くは感じられない。jour(昼)という語に暗い音色が、 nuit(夜)という語には明るい音色が、皮肉にも正反対に与えられている。
 詩句は、言語の高級な補足として、その欠陥を哲学的に補う。

☆ 私の木霊
 私が詩にすべてを注ごうと思い試行錯誤していた頃初めて読み強く印象に焼きついた文章です。詩にとって、語の音色、語感、言葉の響きがどんなに大切か教えられました。
 日本語の文学では和歌が「言葉の調べ」として良い歌の必須の条件と受け継いできたものです。

●以下は、引用した出典の原文です。(引用は二つの詩論「詩の危機」と「音楽と文芸」から同じ主題を自由に要約しています。今回は、「詩の危機」の出典原文を掲載します。)

「詩の危機」から。

 「フランスの詩歌は、その魅惑する力をなによりもまず脚韻の効果に負っている(略)。」
 「最初は新しい発見であった韻の組み合せが、使いふるすにつれて、常套的な繰り返しになってしまう変化(略)。」
 「われわれの「六脚詩句(エグザメートル)」であるアレクサンドランに忠実な人々は、厳格で幼稚なその韻律の機構を内部からゆるめてしまう。それまで人工的な計量器械に無理に従わせられてきた耳は、解放されて、十二の音色のあらゆる可能な組み合せを、自分の力で聞きとることに喜びを感じる。」
 「国民的な韻律を濫用しすぎた結果、倦怠が生まれたからだと言えよう。国民的韻律の使用は、国旗の使用と同じように、元来、特別な場合にだけに限られるべきなのである。しかしともあれ、故意の規則違反や意識しての不協和音が、われわれの微妙な感受性に訴えるものをもつというこの特殊な事情は愉快である。(略)
 厳密な詩句の記憶が無意識のうちに残っていて、それらの演奏のかたわらにつきまとい、利益を与えているのである。」
 「現代の自由詩では、耳で聞いて快いという条件を満たす限り、公けにきめられている音綴の数を、好きなように、無限にまで崩壊させてよいのである。」
 「注目すべきことには、はじめて、ある国民の文学史の中で、国民全体の昔からの所有物であり、その隠れた鍵盤を押すと正当性が高らかに吹きならされる大パイプオルガンに競って、誰でも自分独自の演奏法と聴覚とがあれば、吹奏したり、弾いたり、叩いたりすることによって、自分の楽器をもつことができることになった。誰もがその楽器をひとり離れて演奏しながら、同時にそれを「国語」に捧げることができるのである。」
 「およそ人間の魂はどれも一つの旋律である。だからそれを、ふたたびつなぎ合わせればよいのである。めいめいがもっている笛や絃(げん)は、その目的のために存在する。」
 「美学の問題として見た場合、私の感覚は、人間の言語がかならずしも、声という楽器のもっている色彩と外観とを使って、対象をそれにふさわしく表現していないのを残念に思う。そうした色彩や外観は、たいていの場合幾つもの国語で、また時にはどれか一つの国語で、声という楽器に立派に備わっているのだが。半透明の音色をもった ombre(影)という語の横では、明るい音色をもったtenebres (闇)という語はあまり暗くは感じられない。 jour(昼)という語に暗い音色が、 nuit(夜)という語には明るい音色が、皮肉にも正反対に与えられているのを見るのは何という失望であろうか。(略)詩句は、言語の高級な補足として、その欠陥を哲学的に補う役目をもつものだから。」
 「不思議な秘法。人類の揺りかごの時代に韻律法がうまれたのも、これに劣らぬ意図からであった。
 その秘法により、中くらいの長さをもった語が、眼にとって理解可能な範囲で、線の形に最終的に並べられる。それと一緒に、語の間や各行の前後にある余白の沈黙も並べられる。」
 「詩篇の中で、詩句はたがいに似たような長さでなければならないこと、昔からある釣合いの感覚、こうした規則正しさはやはり将来も続くにちがいない。なぜなら、詩を作るという行為は、まず、一つの思想が等価値のいくつかの主題に分裂するのを、突然目の前に想い浮かべることであり、次に、その分裂した主題を、語でもってふたたび組み上げることだからである。これらの主題はたがいに韻を踏む。
 外形から見た詩篇の特徴とは、詩句が共通の拍子をもっていることと、それを最後に結び合わせる韻の一撃である。」
 「文芸の魔法とは、この飛散しやすいもの、すなわち、元来、物のもつ音楽性としか関係のない人間の精神を、現実というひとにぎりの埃から解放する以外の何事でもない。」
 「話すことは、事物の現実に対して、ただ物々交換的な関係しかもたない。文学では、現実とは、暗示の対象とさえなればよく、事物のもっている性質は、そこからひき出されて、観念という形で実体化される。
 こうした条件のもとに歌がほとばしり出る。歌とは、心の奥底の喜びが、軽くなって飛び出したものである。」
 「純粋な著作の中では語り手としての詩人は消え失せて、語に主導権を渡さなければならない。語は、一つ一つちがっているためにその間に衝突を生じ、こうして、いわば動員状態におかれている。ちょうど宝石を灯りにかざすと、長い光の線が虚像として見えるように、語と語はたがいの反映によって輝き出す。それが従来の抒情的息吹きの中に感じられた個人の息づかいや、文章をひきずる作者の熱意などにとってかわるのである。」
 「詩の書物のもつ秩序は書かれる前からきまっていて、いたるところで偶然を排除する。作者を省略するためには、そうした秩序が必要なのである。だから、断片を寄せ集めるに当たって、どの主題も、あらかじめ、書物の中のどの場所にはめこまれるかがきまっている。ちょうど、こだまが声に答える場合のような鋭敏な対応がそこにはあって――似た役割を演じる主題は、離れたところに置かれても、たがいにぴったり釣合いを保つのである。それは、ロマン派式の、崇高なものをでたらめに置いてゆくやり方でも、主題を一山ずつむりに押し込むやり方でもない。すべてがいつでも動き出せるように、懸垂状態に置かれ、断片が、交互に並んだり向き合ったりしている中から、全体として一つの律動が生まれる。その律動は究極的には、声という楽器を必要としない詩、精神の活動の場所である余白だけでできた詩であろう。」
 「「著作」の魔術的な観念(略)。書物を越えて何人かの人の精神の空間に、この均斉、詩篇の中での詩句の位置と、書物の中での詩篇の位置との双方に関して見られる均斉が、高らかに飛び出すのである。」
 「啓示を受けたように真実が見えてくる――いったい、すべての書物は、多かれ少なかれ、数のきまった繰り返し文句をいくつか含んでいる。してみると、書かれている国語は違っても聖書は一つしかないように、世の中には元来、ただ一冊の「書物」だけしか実在せず、その掟が世界を支配しているのではないか。作品と作品との間の違いは、正しい本文を指し示すために、文明時代、文字の時代の長い間にわたって提出された版本の違いのようなものである。」
 「私個人としては、作家の立場からくるかたよった意見かもしれないが、何物も、言葉として発せられなくては、あとにのこらないと思う。そして、われわれが、この地上にいる目的は、(略)交響楽を「書物」の中に移し変える技術、あるいは、単に、われわれ詩人の財産を奪いかえす技術を完成するためだと思う。なぜなら「音楽」が、この宇宙の万物の相関関係を全部あらわすという本来の機能を発揮し、その充実した明らかな姿で現われるのは、けっして金管、絃、木管などから出るなまの音響によるのではなく、最高度に達した時の知的な言語の働きによるのだからである。」
 「自然界の事象は、人がそれを語る時、言葉の演奏が進むにつれて大気の振動現象に置きかえられ、そしてほとんどすぐに消滅してしまう。そのことは一つの奇蹟であるが、しかし、もしもそこから純粋な観念が、卑近な、具体的な記憶に悩まされずに現われないとしたら、その奇蹟も何の役に立とう。」
 「私が「花」と言う時、私の声は、はっきりした輪郭を何もあとにのこさず、すぐに忘れられてしまう。が、同時に、われわれの知っている花とはちがった、現実のどんな花束にもない、におやかな、花の観念そのものが、言葉のもつ音楽の働きによって立ちのぼるのである。」
 「一般大衆にとっては、言語はまず、通貨のように物の価値を簡単にあらわすためのものである。しかし「詩人」のもとでは、それとは反対に、言語は何よりもまず人間の心の底からほとばしり出る夢と歌であり、虚構の世界を作るための芸術に材料として使われる必要上、その虚像性をとりもどす。」
 「詩句とは幾つかの単語から作った呪文のような、国語の中にそれまで存在しなかった新しい一つの語である。(略)それで貴方がたは、ふだん使いなれた言い廻しの一部を聞きながら、まるではじめて聞くような印象をうけて驚くのである。同時に、詩句の中で名を言われた対象は、貴方がたの記憶のかたすみで、新しい雰囲気にひたってゆく。」

散文著作集『ディヴァガシオン』(1897年)所収。
出典:「詩の危機」「音楽と文芸」南條彰宏訳『筑摩世界文学大系〈48〉マラルメ ヴェルレーヌ ランボオ 』(1974年、筑摩書房)


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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