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ポオの詩論(二)『ユリイカ』。星を求める蛾の願い。

 エドガー・アラン・ポオの二つの詩論「構成の原理」と「詩の原理」から彼の詩想を感じとり見つめています。二つの詩論は体系的な学術論文ではなく、芸術家の彼は、「構成の原理」では彼自身の詩「鴉」を、「詩の原理」では彼が感動した詩人たちの英語詩を、読み感じとりながら、詩についての考えを述べています。ポオは詩論の中心にある確固とした信条を繰り返し述べています。

 今回は、詩とは何か、そして詩の主題についての彼の考えを要約し、その後☆印の後に私が感じた想いを記します。
彼の渾身の宇宙論『ユリイカ』にも触れます。
(出典は、前回「構成の原理」を、今回「詩の原理」を掲載しますが、文中には両方の詩論から彼の言葉を引用しています)。

1. 詩とは何か  (ポオの詩想の要約) 
① 「詩の原理」とは天上の美を求める人間の願望だ。この原理の顕われは常に魂を高揚する興奮の中に見出される。その唯一の判定者は美意識だ。
② 天上の美に達せんとする狂おしい努力、人間精神の本性に適ったこの努力こそ、世の人々が詩として理解し、また享受し得たもののすべてを、彼等に与えてきたのである。
③ かなたには未だ到達しえない何かがある。渇望は人間の不滅性に由来している。それは人間が永遠に存在することの必然の結果であり、同時にその証しである。それは星を求める蛾の願いなのである。
③ 美の観照においてのみ魂の喜ばしい、強烈で純粋な高揚や興奮に達し得る、これが詩情だ。美こそ詩の唯一の正統的領域だ。詩は、知性や良心とは二次的な関係しかない。真理や義務には何の係わりもない。
④ 心情の陶酔である情熱や、理性の満足である真理は美とは全然相容れない。真の芸術家なら、まずそれらの調子を抑えて主眼に相応しい補助手段に止め、次いで詩の雰囲気であり真髄でもある美の中に、できる限りそれらを包み隠そうと絶えず努力する。
⑤ 「教訓詩」では、暗黙に、また公然と、直接、間接に、あらゆる詩の究極の目的は真理であると考えられているが、真理は厳正な言葉、単純、正確、簡潔、冷静沈着で、感情に左右されてはならず、詩的とは正反対の心の状態になければならない。
⑥ 美に最高の表現を与える調子(トーン)は、悲哀の調子、憂愁だ。
⑦ 美と最も密接に結びついている佳人の死は、紛れもなく此の世の最も詩的な主題だ。
⑧ 愛――真実の、聖なるエロスとしての愛は、紛れもなくあらゆる詩の主題の中で最も純粋かつ真実のものだ。
⑨ 魂を養う詩的霊感が宿るもの。美しい自然。高貴な思想。天上的な主題(モチーフ)。宗教的衝動。高潔な自己犠牲の行為。女の美しさ。女の魅力的な愛の仕種。
⑩ 詩人は女の愛の誠実さ、純粋さ、強さ、その神の如き荘厳さに拝跪し、それを崇拝する。

2. ☆ 私の詩想のこだま

 ポオが詩とは何かを語る言葉に私は、ポオは本当に詩人だと感じ、強く共感します。彼が詩を語るとき、繰り返し迸りでてくる言葉は、「天上の美」、「魂の高揚と興奮」、「人間の願望・渇望」、「不滅性、永遠」、「悲哀、憂愁」、「死」、「愛」です。
 彼がおしゃべりなだけで空虚な評論家でなく、芸術家として詩人として伝えようとしていることは、彼の最も美しい詩「アナベル・リー」がこれらの言葉が指し示すものを、詩としてきらめかせていることから、そして何よりその詩が読む私の魂に美しく響くことから、感じとれます。
 「天上の美」と彼が語るとき、キリスト教の神や天国のイメージが浮びあがります。私は美しいと感じます。同時に、紫式部の『源氏物語』や式子内親王と和泉式部の和歌が、手をのばし仰ぎ見る阿弥陀仏や西方浄土のイメージと、私の想いのうちでは響きあう音楽となって重なり溶け合います。そこにあるのは美。私も、かなたのいまだ到達し得ない何か、天上の美を渇望する人間、星を求める蛾です。
そうせざるを得ない真実だけが美しく響いています。どれが真理かわからない人間にもできること、わからないからそうせずにはいられないことです。
 美しいと心ふるえるとき、「魂の喜ばしい、強烈で純粋な高揚や興奮」、感動だけが光り輝く瞬間に時が止まり永遠を映しだします、それが詩、詩情だと、私も考えていて、詩を求めて生きています。

 「詩は、知性や良心とは二次的な関係しかない。真理や義務には何の係わりもない。真の芸術家なら、まずそれらの調子を補助手段に止める」。この言葉の受け止め方で、その人の詩観があらわになると思います。
 詩は知性により真理を光らせるものだと考える人もいるし、詩は良心を表現し義務を思い起こさせるものだと考える人もいます。さらに社会的な正義を伝え社会的行動に駆りたてるものと考える人もいます。
 私は、ポオの詩観に響きあう者です。詩は美にふるえる魂、人間の心の感動、愛だと、考えています。知性も良心も人間として言葉で表現する以上自然に現われるものだから、押し殺す必要も全くないけれども、その逆に全面に押し出して、「真理」を語り伝えること、「義務」を呼び起こすこと、「正義の行動」に駆りたてること、それが詩の目的、詩の意味だと断言する人に対しては、嘘を感じます。
 有史以来人間が考え求め続けてきながら絶対的なものが見つからない、「真理」、「義務」、「正義の行動」を、詩は伝えられ、詩人は伝えるべきだと主張する人は傲慢だと私は思います。詩人は、教祖でも、教師でも、政治屋でもありません。それらを目的として追うのは、詩の言葉ですることではありません。知性で、論理で、情熱で、これだけが正しいと説経できる神経をもつ人が吐き散らせばよいと思います。そんな言葉を私は聞きませんが。
 「真理」も、「義務」も、より正しい「行動」も、生きていくうえで考え摸索せざるは得ないけれど、詩人として詩作品で行うことではなく、一人の社会に生活する市民として意見を述べ合い選択していけばよい事柄だと私は思います。
 
 ポオは散文詩との副題をつけた宇宙論の『ユリイカ』を、詩ととらえてほしいと、読者に要求しました。彼は宇宙の成り立ちから未来までを語る『ユリイカ』を、鋭い知性で書き、真理を語ろうとしました。この作品の言葉は、詩と対極にある散文です。
 芸術としての美、詩だとこの作品を呼ぶことには無理があることを、彼が意識していない訳がありません。だとしたら、なぜ彼がこの作品が詩として評価されることにこだわったのか?
 私は彼が『ユリイカ』でほんとうに表現したかったものが、「天上の美」だったからだと考えています。 真理を知性で語りながら、ほんとうに伝えたかったのは、より大きな詩情だったからだと感じます。『ユリイカ』はおしゃべりな駄弁で、説経がましく真理の押し付けがましさも匂うけれど、それでも私が好きなのは、ポオが命を賭けて書き上げたこの作品には、星を求める蛾の願いが、哀しく響いているからです。蛾の褐色まみれの言葉で書かれた作品を読むと、私も蛾だから、真理がそこになくても込められた詩情を、美しいと感じずにはいられません。

 最後に、ポオの詩と詩論を私がとても好きな一番の理由は、「詩の主題の中で最も純粋かつ真実のもの」を、ポオは「愛」だと言い切るからです。私も「愛」だと彼にこだまします。

 次回は、ポオに大きな影響を受けたフランス象徴詩派のマラルメの詩論を見つめます。

●以下は出典からの原文引用です。(赤紫文字は私が強調するために付けました。)
(出典は、前回は「構成の原理」、今回は「詩の原理」を掲載していますが、両回とも文中には二つの詩論から彼の言葉を引用しています。)

◎「詩の原理」から。

 「長い詩などというものは存在しないというのがぼくの立場である。」
 「一篇の詩が詩の名に値するのは、魂を高揚し、興奮させる限りにおいてであるのは言うまでもない。詩の価値はこの高揚する興奮に比例する。だが、およそ興奮は、精神の必然によって、やがては醒めるものだ。一篇の詩を、いやしくも詩と呼ぶに足らしめるほどの興奮が、相当長い作品を通じて終始保たれるなどということは、とうてい不可能である。」
「『失楽園』(略)。実際、この偉大な作品は、あらゆる芸術作品の生命に不可欠の統一性を度外視して、単に一連の小詩篇としてそれを見るときにのみ、詩作品と見做され得るものなのである。」
 「この世の最上の叙事詩ですら、それが与える究極的、総体的、絶対的効果は無きに等しい。
 「一篇の詩が不当に短い場合も確かにあり得る。甚(はなはだ)しく短いと、単なるエピグラム風に堕してしまう。極端な短詩は、ときたま輝かしい、また生き生きとした効果を生むこともあるが、深遠な、或いは持続的な効果を生むことはない。」
 「ぼくが邪説というのは「教訓詩」のことである。そこでは、暗黙に、また公然と、直接、間接に、あらゆる詩の究極の目的は真理であると考えられている。すべての詩作品は教訓を垂れるべきであって、作品の詩的価値はこの教訓をもって判断されなければならないというのである。」
 「真理を確固たらしめるには、華やかな言葉よりも厳正な言葉が必要である。単純、正確、簡潔でなければならない。冷静沈着で、感情に左右されてはならない。つまりできるかぎり詩的とは正反対の心の状態になければならない。」
 「人間精神の底に宿っている不滅の天性は、かくして明らかに美的感覚である。人が己を取り捲いているさまざまな形や音や香りや情緒に喜びを感ずるのも、この美的感覚があるからである。百合の花が湖面に映り、アマリリスの眼差しが鏡の中に写し取られるように、これらの形や音や香りや情緒も言葉や文字に再現されて、もうひとつの喜びの源となる。」
 「この渇望は人間の不滅性に由来している。それは人間が永遠に存在することの必然の結果であり、同時にその証しである。それは星を求める蛾の願いなのである。眼前の美の単なる観賞ではなく、天上の美に達せんとする狂おしい努力である。死後の栄光の予感にうち震えながら、時間内に存在しているさまざまな事物や思念の組み合わせを重ねることによって、ぼくたちはあの「美的なるもの」―その各要素は恐らく永遠だけに属しているのだろう―のせめて一端におでも触れようと努力するのである。」
 「天上の美を我がものにしようとする努力、人間精神の本性に適ったこの努力こそ、世の人々が詩として理解し、また享受し得たもののすべてを、彼等に与えてきたのである。
 「音楽は、拍子、リズム、押韻といったさまざまな形式の点で詩の中の非常に大きな要素となっているから、それを斥(しりぞ)けることは決して賢明なことではない―つまり音楽は詩の重要な添性であって、その助けを拒むものは愚かである、という事実(略)。詩情を吹きこまれた魂が懸命に求める究極目的、天上の美の創造に最も近づくのは、おそらく音楽においてであろう。」
 「言葉の詩とはつまり「美の韻律的創造」だと言えよう。その唯一の判定者は美意識である。知性や良心とは二次的な関係しかない。偶然の場合を除けば、義務とか真理とかには何の係わりもない。」
 「最も純粋にして何よりも魂を高揚し、かつ最も強烈なあの喜びは、美の観照から得られるものなのである。美の観照においてのみ魂の喜ばしい高揚や興奮に達し得るのであって、これが詩情と認められるものなのだ。(略)それ故ぼくは美が―この言葉を崇高美をも含めて使っているのだが―美が詩の領域なのだということを、はっきりさせておこう。」
 「(魂の)特異な高揚が、少なくとも詩において最も容易に達せられる(略)。情熱を誘い、義務を勧めるもの、更には真理の教訓を、詩の中に持ち込んではならないし、それによって何ら益しないという結論にはならない。そういったものが偶然さまざまな形で、作品全体の目的に役立つかも知れないのである。だが真の芸術家ならば、常にそれらを制御して、詩の雰囲気であり真髄でもあるあの「美」に然るべく従属させようと努めるであろう。」
 「詩の原理」。「(略)ぼくの目的は、この原理自体がそのまま直ちに天上の美を求める人間の願望であるということと、この原理の顕われは常に魂を高揚する興奮の中に見出されるものであって、それは心情の陶酔である情熱や、理性の満足である真理とは全く別のものであるということを、示すことにあった。(略)」
 「愛―真実の、聖なるエロスとしての愛、アプロディーティのヴィーナスとは峻別されるウラノス(天)のヴィーナスは、紛れもなくあらゆる詩の主題の中で最も純粋かつ真実のものである。」
 「詩人自身の内部に真の詩的効果を惹き起こす幾つかの極く単純な事象を語りさえすれば、真の詩とは何かという明瞭な概念にももっと速く到達できるであろう。詩人はその魂を養う詩的霊感を、天上に輝く燦然たる天体に、花の渦巻きに、低い潅木の群生に、見え隠れする小川のきらめきに、人里離れた湖の静寂に、人気のない井戸の星を映す水底に、認めるのである。また、小鳥の歌に、イーオラスの竪琴に、夜風の吐息に、森の歎きに、岸辺で囁く波に、林の爽やかな息吹きに、菫の匂いに、ヒヤシンスのなまめかしい香りに、夕暮、遥か遠い未見の島々から、果てしない前人未到の仄暗い海を越えて漂ってくる意味ありげな香りの中に、詩人はそれを見る。あらゆる高貴な思想、あらゆる天上的な主題(モチーフ)、あらゆる宗教的衝動に、あらゆる騎士道的で高潔な自己犠牲の行為に、詩人はそれを認める。詩人はまた女の美しさに、その歩みの優雅さに、その輝く瞳、その歌うような声、その微かな笑い、その溜息、その衣擦れのハーモニーに、それを感じとる。また女の魅力的な愛の仕種、その燃える情熱、その優しい心遣い、従順で献身的なその忍耐力に、それを深く感じとるのだ。が、中でも、そう、とりわけ女の愛の誠実さ、純粋さ、強さ、その神の如き荘厳さに拝跪し、それを崇拝するのである。」

出典:「構成の原理」「詩の原理」(篠田一士訳)『ポオ 詩と詩論』(東京創元社、1979年)。

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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