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ポオの詩論(一)。美の韻律的創造。

 萩原朔太郎の『詩の原理』についてのエッセイで数回、エドガー・アラン・ポオの詩論について触れました。また彼の作品のうち私が一番好きな詩「アナベル・リー」を「愛(かな)しい詩歌」に咲かせました。(ポーの詩「アナベル・リー」)。
 今回と次回は、彼の二つの詩論「構成の原理」と「詩の原理」から彼の詩想を感じとります。
二つの詩論は体系的な論文ではなく、芸術家である彼は、「構成の原理」では彼自身の詩「鴉」を、「詩の原理」では彼が感動した詩人たちの英語詩を、具体的に読み感じとりながら、詩についての考えを述べています。中心となる確固とした信条は、どちらの詩論でも繰り返しています。
今回はまず、詩の形式についての彼の考えを要約し、☆印の後に私の詩想を記します。

1. 詩のかたちについて (ポオの詩想の要約) 
① 人間精神の不滅の天性は、美的感覚だ。形や音や香りや情緒は言葉や文字に再現されて、もうひとつの喜びの源となる。      
② 言葉の詩とは「美の韻律的創造」だ。詩情を吹きこまれた魂が懸命に求める究極目的、天上の美の創造に最も近づくのは、恐らく音楽においてだ。
③ 詩が詩であるのは、魂を高揚して激しく興奮させる限りであり、詩的興奮は束の間のもの。だから長い詩などというものは存在しない。長編詩は実際は短詩の連作だ。『失楽園』の半分は本質的には散文だ。最上の叙事詩も究極的、総体的、絶対的効果は無きに等しい。
④ 甚(はなはだ)しく短いと、単なるエピグラム風に堕してしまう。極端な短詩は、深遠な持続的な効果を生むことはない。

⑤ (ポオは、)詩を、数学のような正確さと厳密な結果をもって構成し作品を完成させようする。
⑥ 畳句(リフレイン)の効果、快感は専(もっぱ)ら同じ音の単調な反覆から引きだされる。畳句の使い方の変化(ヴァリエーション)で効果は出せる。
⑦ 結句が強力であるためには、響きのいいこと、長く延ばして強勢を置けることが必要。この音を実現し、同時に詩の(主題の)調子(トーン)をできるだけ帯びている単語を選ぶことが必要。
⑧ 韻律(リズム)、歩格(ミーター)、連の長さと全体の配列をも明確に。韻律形式(ヴァーシフィケーション)。単なる韻律(リズム)には変化の可能性が殆どない。歩格や連の変化の可能性は実に無限。押韻と頭韻の原理の適用を拡大することから生ずる他のさまざまな耳慣れない斬新な効果によって助成できる。言葉自体の響きのよさで言葉を選ぶ。
⑨ 音楽は詩の重要な添性。拍子、リズム、押韻といったさまざまな形式面で詩の非常に大きな要素だ。
⑩ 潤色、暗示性、この二つが恒に要求される。隠喩表現。寓意。象徴は詩の最後の連の最後の一行において理解される。

2. ☆ 私の詩想のこだま 

ポオの詩論に私が強く感じるのは、「詩は天上の美の創造」だというゆるがぬ信条です。詩のかたち、形式についての言葉の底流にも、この考えが水音となり流れています。同時に彼は、詩が美を創造するのは音楽によってであり、詩は「美の韻律的創造」だと言います。本来的な抒情詩人に共通した、音に対する敏感な美的感覚が彼にもあって、私が好きな詩「アナベル・リー」は韻律美そのものです。
もうひとつ私が深く共感するのは、詩は魂の高揚、興奮だという言葉です。私の言葉に言い換えると、詩は魂と心の感動以外のなにものでもない、という本質です。
長編詩は短詩の連作でその大部分は散文、叙事詩も同じ、とする激しい主張に彼が詩にだく純粋さを感じ共感します。
短詩についての言葉は、アクセントにメリハリがあり脚韻も鮮明な英語の韻律に適した長さに関わっています。日本語のように抑揚の乏しく静かなやわらかな音の言語には当てはまらず、日本語に適した韻律的長さは、十七文字から三十一文字であり、日本のそれ以上の長さの日本語の詩は「俳句や短歌の連作」だとも言えると私は考えます。
詩を構成し形作る意思の強さは、芸術家にとって当然のことですが、ポオの場合、畳句(リフレイン)、韻律(リズム)、歩格(ミーター)=詩脚・音節、拍子、押韻、言葉自体の響きのよさと、言葉の音と響きに意識が集中していて、詩を言葉の音楽ととらえ創作している姿が鮮明に浮び上がっています。
彼の詩は「天上の美」だから、それをこの世の言葉で表現する技術、手段として、潤色、暗示性、隠喩表現、寓意、象徴性が重要になります。それ以外に「天上の美」は造形しようがないと言えます。

次回はポオの「詩そのもの、詩の主題」についての詩想をみつめなおします。

●以下は出典からの原文引用です。(赤紫文字は私が強調するために付けました。)
(出典は、今回「構成の原理」を、次回「詩の原理」を掲載しますが、文中には両方の詩論から彼の言葉を引用しています。)

◎「構成の原理」から。

「一番よく知られている『鴉(からす)』を例にとってみよう。その構成の一点たりとも偶然や直感には帰せられないこと、すなわちこの作品が一歩一歩進行し、数学の問題のような正確さと厳密な結果をもって完成されたものであることを明らかにしたいと思う。」
「いわゆる長編詩は、実際は短詩の連作、いわば短い詩的効果の連続にすぎない。今更言うまでもなく、詩が詩であるのは、魂を高揚して激しく興奮させる限りにおいてであって、しかも激しい興奮は、真理の必然によって束の間のものだ。それ故、少なくとも『失楽園』の半分は本質的には散文である。つまり、一連の詩的興奮の合間には必然的にそれと対応するだけの沈滞を交えていて、恐ろしく長いため、全体的には芸術上のはなはだ重要な要素である総体性、すなわち効果の統一を失っているのである。」
「詩作品においては限界を越えることは断じて正しいことではない。こうした限度内でなら、詩作品の長さは作品の価値、言い換えると興奮や高揚、更に言い換えると作品が誘発し得る真の詩的効果の度合いと、数学的関係を保ち得るであろう。なぜなら、短さは明らかに目指す効果の強さに正比例するはずだからである。」
「すなわち美こそ詩の唯一の正統的領域である。」
「最も強く、最も魂を高め、かつ同時に最も純粋である悦びは、美の観照にあるとぼくは信じている。事実、人が美について語るとき、その意味するところは、想像されるように、決してその性質のことではなく、実は効果のことなのである。つまりいま言った(知性や感情のではない)魂の強烈かつ純粋な高揚のことなのであって、それは「美」の観照の結果経験されるものだ。ぼくが美を詩の領域と称するのは、結果(効果)は直接の原因から生じ、目的はその達成に最も適した手段をもって達成されるというのが紛れもない芸術上の法則だからであって、前述の特異な高揚が詩において最も容易に達成されることを否定するほど愚劣な者はさすがに誰ひとりいない。」
真理という目的、すなわち知性の満足とか、情熱という目的、すなわち心情の興奮とかは詩においても或る程度は達せられるが、散文においてこそ遥かに容易に達せられる。実際、真理は正確さを、情熱は素朴さ(真の情熱家にはぼくの言う意味が分かってもらえるだろう)を要求するが、それらはぼくが主張するように、興奮とか魂の快い高揚をもたらす美とは全然相容れないものである。」
「とは言っても、情熱や或いは真理でさえも、詩の中に持ち込んではならない、持ち込んでも無益だということには決してならない。それらは、ちょうど音楽における不協和音のように、対比によってはっきりさせたり、全体の効果に有利に働くかもしれないのである。だが真の芸術家なら、まずそれらの調子を抑えて主眼に相応しい補助手段に止め、次いで詩の雰囲気であり真髄でもある美の中に、できる限りそれらを包み隠そうと絶えず努力するであろう。」
 「美に最高の表現を与える調子(トーン)は何か(略)。ぼくの全経験からすれば、それが悲哀の調子であることは明白なことだ。いかなる類の美も、その展開の極致においては、それを感受する魂を興奮させ、涙させずにはおかないものだ。それゆえ憂愁はあらゆる詩の調子のうちでも最も正統的なものである。」
「普通用いられる技法上の効果(芝居でいう山場の方がもっと適切であるが)のすべてを注意深く思いめぐらしているうちに、畳句(リフレイン)の効果ほど弘く用いられているものはない(略)。
普通用いられているところでは、畳句とか折り返し句は抒情詩に限られているばかりか、効果の点で音と思想双方の単調さに頼っている。快感は専(もっぱ)ら同じことの反覆という感じから引きだされる。そこでぼくは、全体として音の単調さは守りながら、一方では絶えず思想の単調を破ることによって、効果に変化をもたせ、それによって効果を高めることにした。つまり畳句そのものは殆ど変えず、畳句の使い方に変化(ヴァリエーション)をもたせて、絶えず斬新な効果を生み出すことを心に決めたのである。」
「畳句を用いることは既に決めたのだから、詩を連に分かち、畳句を各連の結句とするのは当然の帰結であった。そのような結句が強力であるためには、響きのいいこと、長く延ばして強勢を置けることが必要なのは勿論のことで、こうした考えから、最も引き延ばせる子音 r音と、最も響きのいい母音o音を結びつけることがどうしても結論されてくる。
この音を実現し、同時にぼくがこの詩の調子として予め決めておいた憂愁をできるだけ帯びている単語を選ぶことが必要になった。こうして捜してくると、≪Nevermore≫という言葉がどうしても見逃せなくなってくる。」
 「そこでぼくは、極致、つまり細部に亙る完璧を目指して、自問した――「あらゆる憂鬱な主題の中で、遍(あまね)く人の理解するところに従えば、最も憂鬱なものは何だろうか」と。死――それこそ明白な答えだった。「それなら、この最も憂鬱な主題が最も詩的なのはどんな場合であろうか」ぼくが既に或る程度説明してきたことから、この答えも明らかである。すなわち「それが美と最も密接に結びついているとき」である。そのときひとりの佳人の死は紛れもなく此の世の最も詩的な主題であり、またそのような主題は、恋人と死別した男の口から語られてこそ最も似つかわしいものであることも、同様に疑いないところである」
韻律(リズム)、歩格(ミーター)、連の長さと全体の配列」。
「韻律形式(ヴァーシフィケーション)」。
「単なる韻律(リズム)には変化の可能性が殆どないということは認めるにしても、明らかに歩格や連の変化の可能性は実に無限大だというのに、幾世紀に亙って、韻文において誰ひとり独創的なことを為し遂げた者もなく、またしようと考えたとも思われない。」
言葉自体の響きのよさ
「第一に或る程度の複雑さ、もっと適切に言えば潤色、第二に或る程度の暗示性、どんなに不明確であってもいいから、意味の底流のようなもの―この二つが常に要求される」
「隠喩表現」「寓意」「象徴的なもの」
象徴になっていることをはっきりと理解するのは、最後の連の最後の一行においてである。」

出典:「構成の原理」「詩の原理」(篠田一士訳)『ポオ 詩と詩論』(東京創元社、1979年)。

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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