ヘルダーリンの好きな詩について書きましたが、私はドイツ語を勉強しなかったので、原詩の韻律には無知でした。
詩人の川中子義勝さんにドイツ定型詩についてお話を伺う機会に恵まれ「一行のなかでの強弱の決まりごとが、行と行の脚韻とは別にある」と教えていただきました。
私は昔フランス詩をかじったときに、脚韻の美しさは感じても、行内の韻律はあまり感じとれず、ほとんど忘れていたことに気づきました。「強弱の韻律」について新鮮に感じたので気になり調べて、参照の
和田義博氏のブログの記事「ドイツ詩韻律学習」を見つけ、次のことを知りました。
①
ギリシャ詩の系譜のラテン語系フランス語、イタリア語、スペイン語と、ゲルマン系のドイツ語、英語の詩の韻律表現には、言語の特質の違いによる差異がある。
② ラテン語系の行内韻律は
音節の長短の組合せであり、ゲルマン系は
音節の強弱の組合せである。
フランス詩の長音節と短音節のさまざまな組合せを、
ドイツ詩は音・アクセントの強弱の組合せで置き換えている。
③ 詩句行内の韻律形式と、行末の脚韻の押韻は、どちらの言語でも、明確に別のものとして区別されている。たとえば行内韻律を規則正しく守っている詩でも、
脚韻を踏まない詩形は無韻と呼んでいること。ミルトンの『失楽園』など。
昔、フランス詩を学んだ時に、ユーゴーの詩の長母音、短母音の組合せによる行内韻律のプリントをもらった記憶が蘇りました。もともと
アクセントの強弱がリズミカルなドイツ語、英語の詩が、旋律ゆたかなフランス語の詩と違う表情をもつことを、とても興味深く思います。
もう少しドイツ語の詩について確かなことを学びたいと思い、詳しくご存知の
詩人の吉川千穂さんに、
「ドイツ定型詩の韻律」、「定型詩が崩れた後の、今のドイツの詩人たちの詩は、散文により近づいているか? 散文と詩の境界はどのようにあるか?」伺いました。
今回は快く教えてくださった吉川さんの論文と言葉を引用させて頂いて、
ドイツの定型詩と自由韻律詩をみつめます。そのあとに、私が感じ考えたことを記します。(なお、論文の内容は、詩のモチーフや比喩、詩人の内面なども深く考察したものですが、私が詩形に関する箇所のみを抜粋しています。)
1.ドイツ定型詩の韻律(吉川さんの言葉と論文の引用①)
「
ドイツ定型詩の韻律には、ヤンブス(強弱)、トロヘーウス(弱強)、ダクテュルス(強弱弱)、アナペースト(弱弱強)という4種類があり、
詩行はこれらの組み合わせによって展開されます。」
●イマヌエル・ヴァイスグラスの詩『ER』の韻律 (出典の論文から抜粋)。
(記号=J:ヤンブス。T:トロヘウス。D:ダクテュルス。a:アウフタクト。s:強拍。)
第1連 交互韻を踏む脚韻の言葉
1 JJJJJa A siedeln
2 JJJJJ B Ort.
3 JJJJJa A fiedeln,
4 JJJJJ B fort
第2連
1 JJJJJa C dreister
2 JJJJJa D streicht:
3 JJJJJ C Meister,
4 JJJJJ D schleicht
第3連
1 JJJJJa E Abend,
2 DDJJ F Mund
3 aTTTTT E grabend;
4 DsDTs F Todesstund.
第4連
1 JJJJJa G dichtet,
2 JJJJJ H Haar.
3 JJJJJa G gerichtet:
4 JJJJJ H war.
ヤンブスが勝っている四行定型詩
1) 第1連1、3および2、4行目がそれぞれ韻律に反復
2) 第2連1、2および3、4行目にそれぞれ韻律に反復 (略)
5) 第4連1、3および、2、4行目にそれぞれリズムの反復
6) すべて
交差韻で書かれている。(略)
9) 第3連に
韻律の乱れが生じている。2、4行目に唯ーダクテュルスが現れ、
他の韻律との違いにより強調されている。
10)
脚韻は交差韻。 (略)
定型四行詩でヤンブス詩行が勝った韻律を持ち、脚韻を踏んでいる(略)。
2. ドイツ語の自由韻律詩(吉川さんの言葉と論文の引用②)
「ドイツ現代詩は
自由韻律詩がほとんどですが、よくみるとこれらの韻律が複雑に組み合わさってできていることがわかります。
たとえば有名な
パウル・ツェランの「死のフーガ」の冒頭「夜明けの黒いミルクを私たちは夜ごとに飲む、私たちは昼ごとに、朝ごとに飲む。」というフレーズには、
TTDDT, aDDDs, aDT (T=トロヘーウス、D=ダクテュルス、a=アウフタクト、s=強拍)というようにトロヘーウスとダクテュルスの交差が見られます。
ですから、今のドイツ詩が散文に近づいているといっても、
散文との違いはやはりこのリズム、行内韻にかかっているのではないでしょうか。」
●『死のフーガ』の韻律 (出典の論文から抜粋)。
(記号=J:ヤンブス。T:トロヘウス。D:ダクテュルス。a:アウフタクト。s:強拍。)
第1連
1 TTDDT
2 aDDDDs
3 aDT
4 aDDDDs
5 aDTDDs
6 aDDDDDT
7 aDDDDDDDs
8 aDDTDDT
9 TTTTs
第2連
1 TTDDs
2 aDDDDT
3 aDT
4 aDTDDs
5 aDDDDDT
6 aDDTDDDDs
第3連
1 assDDDTDs
2 aDDTDDs
3 sDDDDDT
第4連
1 aDDDDs
2 aDDDDs
3 aDTDDJ
4 aDDTDDs
5 aDDDDDT
(以下略)
『死のフーガ』の形式
『死のフーガ』は自由韻律で書かれており、ただ一つの脚韻を持つに過ぎない。
ダクテュルスが勝っている自由韻律である。
長い行と短い行が不規則に混ざっている。
六連とも大きさ(行数)がぱらぱらである。
1) Wirが主語の文
第1連2行目と4行目に
韻律の反復第1連3行目、第2連3行目、第4連3行目に
韻律の反復2) Wirとihrが主語の文
第5連3行目に再び
韻律の反復3) Erを主語とした同一文
第1連5行目と第2連4行目に
韻律の反復 (略)
7) 5行目に
schの音の頭韻がみられる。これは"Er“の厳しく冷徹な行動を音で表している。(略)
9) 第3連一行目に"Erruft stecht tiefer“と
強拍が三度続きここに韻律の乱れが初めて出る。
動詞が二度続き、その後に比較級の形容詞が来る。(略)
第5連一行目にも"Erruft spielt tiefer“と第三行と同じく動調三つの後に比較級の形容詞がきて、この
韻律上の乱れに第三者derTodが登場する。(略)
10)ここに
唯一の脚韻がみられる。blauとgenauは、青い目をしたドイツから来たderTodが"bleiernerKugel“をまさにdichに命中させるという内容に合致している。
このように、
『死のフーガ』はダクテュルスが勝っている自由韻律の詩である。
ErとWirを主語とする文は決して同じ韻律を持つことがなく、形式的に分かれている。第三連と五連に
韻律の乱れが生じており、どれもErを主語とする文である。
脚韻はただー箇所のみにある。
文はすべて現在形である。
3.自由韻律詩も言葉の音楽 今回、いちばん私の心に響いたのは、吉川さんの次の言葉です。
「自由韻律のドイツ詩が散文に近づいているといっても、散文との違いはやはりこのリズム、行内韻にかかっているのではないでしょうか。」。
萩原朔太郎が『詩の原理』などで繰り返し書いているように、日本語の口語自由詩は、平板でのっぺりしています。その一番の要因は、
日本語の単語にアクセントの強弱がまったくないことで、いい悪いではなくそういう特徴の言語です。
ドイツ詩のようなリズム感による行内韻律は持ちえません。 また、私がフランス詩に行内韻があることすら忘れてしまったのは、不勉強もありますが、私が詩を書くときに
長音節と単音節の組合せを意識できないからだと思います。母音「あ、い、う、え、お」も単独では余韻に乏しく、ああ、おお、と重ねて初めて長い音になるので、
フランス詩のような音節の長短による行内韻律も持ちえません。 自由韻律のドイツ詩の「散文との違いはやはりこのリズム、行内韻にかかっている」という吉川さんの捉え方に私も同感なのですが、
日本語の詩にはもともと、音の強弱の組合せによる行内韻律も、音節の長短の組合せによる行韻韻律もないので、散文とのちがいはほとんどない、とも言えます。
行内韻律とは別の、詩句行末の
脚韻の効果も、日本語では乏しいことを、前回「秋の日の(no)」「ヴィオロンの(no)」などでみました。
それでは、日本語に、韻文、詩はないのか? 散文とのちがいはないのか?
以前にも
萩原朔太郎の『恋愛名歌集』を通して考えたように(
音律構成の織物『恋愛名歌集』(四)萩原朔太郎)、
日本語の詩の音楽の美しさは、「調べ」にあります。その命は、
母音と子音の織りなす音色と、呼吸に近い息づかいと休止、間(ま)のとり方、にあります。
その特徴は、ダイナミックな派手で強烈でリズミカルで強弱の激しい自己主張とは対極にある、
かそけき繊細なたおやかな女性的な美しくかすれた消え入りそうな肉声です。
がっちりと構成された押し出しの強いドラマチックな叙事詩には全く向きませんが、
心ひびかせる短めの抒情詩にはとても向いているから、美しい詩歌が生み出され続けてきました。
日本語の「調べ」は、もともと不規則な自由韻律、音の織物なのだから、(三十一文字、十七文字の音数律のほかには)
定型詩も自由詩の区別ももとからありません。 自由韻律詩を散文からなお独立させているものは何か? フランス詩でも、ドイツ詩でも、日本語詩でも、それぞれの
言語の個性を輝かせる響きが織り込められていて
言葉の音楽が聴きとれるかどうか、ここにあると私は思います。
参照にあげた『詩とリズム ドイツ近代韻律論』を入手できたので、消化できたら別の機会に取り上げたいと考えています。
出典:
吉川千穂「パウル・ツェランの〟Todesfuge“とイマヌエル・ヴァイスグラスの〟ER〝の影響関係をめぐって」2003年12月。北海道大学独語独文学研究年報。
参照:
和田義博ブログの 「ドイツ詩韻律学習」 http://emptybrigade.txt-nifty.com/blog/2011/04/post-ecda.html( 次の書を読み解いた記事です。ゲールハルト・シュトルツ著、坂田正治訳、『詩とリズム ドイツ近代韻律論』、1978年、福岡:九州大学出版会)
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