ルクレティウスの『事物の本性について―宇宙論』に照らして詩を考えてきました。今回はそのまとめです。
ルクレティウスの『事物の本性について―宇宙論』のような、古代からの西洋の文学伝統に屹立する作品と見比べると、日本の詩歌はとても狭い世界のなかで、思想のかけらもない感情を歌っただけだ、と否定的に捉える見方もあります。たしかに抒情か叙景の短い詩である和歌を本流とする日本詩歌の文学伝統と、ルクレティウスの作品は、おなじ詩と呼ぶのがためらわれるほど、一見すると異質の別世界です。
私はこのような見方に対してまず、
詩に作品の長さ、短さによる優劣はない、と考えます。膨大な行数の長い詩が優れているのでもなく、日本の詩が短いから劣っているわけでもありません。なぜなら詩句に込め、歌い、伝えようとするものと、言葉のかたち、作品の姿は、切り離せず一体だからです。
日本の短いかたちの詩歌は、もともと思想、概念を盛ろうとはしませんでした。仏教思想や無常観を言葉に滲ませることがあるくらいでした。
日本の詩歌の本来の姿はおそらく生れたときから、真理を主張しようとするものではなく、
あはれ、その真実を歌いだすものだったのだと私は思います。
男と女の一夜の逢瀬の思い、亡き人への鎮魂の思い、風の音や雪や月の美しさや小鳥のさえずりに、
ああ、と深く感じて生れた言葉に、真理や思想のかけらはなくても、いちどかぎりの切実さ哀しさ、いのちのあるがままの表情、心の真実が短い言葉だからこそ凝縮して響いています。 露にやどる月のひかりの揺らぎを涙と重ねて感じとれる感受性は、文化の伝承があってはじめてつちかわれ研ぎ澄まされた素晴らしいものです。
日本の詩歌は真理を論じるのではなく、
真実を感じとり歌うことを何より大切にする、世界観と感性から生れた詩歌です。
歌われ、詩歌となったとき、その瞬間だけの真実はなぜか、時を超えて人の心に生きるものとなります。
だから日本語の詩歌の源流、そしてどの時代の詩歌にも底流には必ず
抒情詩があります。
抒情詩は詩そのものです。
詩の言葉でしか表現できないものを伝えてくれるものです。雄大に叙述し描写する叙事詩よりも詩の根源にあり、思想を主張する散文とは異なる姿で響いています。その詩歌の本質が、日本の抒情詩にはあります。
このように書きながらも同時に私は、日本語の詩歌をもっと多様でゆたかな姿で表現したい、といつも考えています。言葉のかたち、その姿においても、
三十一文字を越えと長い詩句で長い詩行で、詩の本質を見失わない言葉を生みだし伝えたいと、願っています。
私の第一作品集
『死と生の交わり』は、詩集ではない、思集だとのこだわりが若かった私にはありました。現代詩という流行の規範に、思想があるように見せかけた独りよがりの虚言を感じて好きになれなかったからです。
だから私の言葉は、現代詩でも流行りの詩集でもない、世界文学、日本文学と、もっと本質的なところでつながっている言葉なんだと考えていました。
私は、
デモクリトスやエピクロスの原子論を奉じるルクレティウスの思想が真理だと主張する人間ではありません。ギリシャ思想では
ピュロンの懐疑論、セクストス・エンペイリコスの、わからないことはわからないとする考え方や著作のほうにこそ、人間にはわからないことまでを真理だと断言してしまう嘘と驕りがないから、より共感します。私は同じ意味で現代科学にも人間の驕りを感じます。
だから私にはこれが真理だと独善的に主張する思想書は書けず、星は好きでも天文学者にはなれません。それでも考え抜くことに生きた思想家や、宇宙の彼方を望遠鏡で見つめる人は好きです。
私は私にできること、詩を歌い抜くことで、彼らと響きあいたいとだけ願いつつ、創作しています。そのような思いから生れた第一思集の作品をここに引用します。
「鎮魂歌」(『死と生の交わり』から)。 今は思集でも詩集でもいい、と私は思っています。逆に詩という言葉が指し示すものを、思い、思想、世界観、宇宙感、生命感をも含みこんだ、より豊かなものに、膨らませていきたいと、考えます。
いのちと宇宙を感じとる心のあり方については、アイヌ民族が育み伝えてくれた言葉に、私は深く共感しています。文字ではない口承文芸として歌い継がれてきた
アイヌ神謡が、私はとても好きです。
アイヌユーカラは、詩であり世界観であり宗教の祈りでもあると感じます。(アイヌ神謡の魅力については
『アイヌ神謡の優しさの豊かさ』に記しました。)
日本語の詩歌の流れの中で、このような豊かな歌を生みだしたいと、私は願います。
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