鎌倉時代の歌人、源実朝の歌のうち、私が好きな十八首をここに咲かせます。
源実朝(みなもとのさねとも・1192~1219・薨年二十八歳)の私家集は
『金槐(きんかい)和歌集』(『鎌倉右大臣家集』)のみですが、藤原定家に歌の教えを仰ぎ、秀歌を論じた
『近代秀歌』や、万葉集を贈呈されています。
実朝の歌集に感じることは、古歌をとてもよく読みこんでいて、
本歌取りで歌の姿を変え言葉として生き返らせていることです。万葉集で歌われた言葉の良さを、若い感性と詩人としての天性で敏感に感じとっていたことがわかります。実朝は新古今和歌集の鮮烈な風をも浴びていました。歌集の四季の題詠には独自性はありませんが、その時代の歌の水準に達するために彼が重ねた修練のように私は感じます。
そのような多くの歌の中に実朝は、
彼にしか歌えなかった独自の歌の花を咲かせました。ここに選んだ、海と空の歌たちと、純真の歌たちだと、私は感じます。彼がいたから生まれた歌、そう強く感じさせる歌。
海の歌は、
鎌倉と伊豆で、海を目の当たりにし潮騒に包まれた彼の感動が伝わってきます。実朝は海を見るのが好きだったんだとわかります。
強い感動をそれしかないと思える斬新な言葉の響きに変えた彼には詩人の魂が確かにあったと私は感じます。多くの方と私も同じかと思いますが、私が一番好きな彼の歌をさきに響かせます。
大海(おほうみ)の磯もとどろに寄する波破(わ)れて砕けて裂けて散るかも
純真の歌たちは、彼の
優しい心のふるえです。なんの解説もいらない感動です。
彼は鎌倉幕府第三代将軍として飾られ権力闘争の血みどろの殺し合い、兄の殺害に加担させられ、殺されました。生まれた境遇、担ぎ上げられた政治的な立場は、その魂とおよそ似つかわしくないものでした。
実朝のいのちは若くして抹殺されましたが、
彼の歌を押しつぶすことは権力争い殺し合いに生きながらえようとだけ明け暮れた物たち(者ではなく心を失うと人間も物です)には、できませんでした。実朝は生涯をかけて、いのちの歌、そして歌のいのちを、教えてくれていると、私は思います。
今回は、歌ごとにコメントは付しませんでした。現代ではわからない若干の古語はありますが、説明の言葉はいらないと思える、優しい心のふるえる感動が海の波となって美しく揺れていて、読むと自然に潮騒に包まれる歌だからです。
出典:
『金槐和歌集』(校注・樋口芳麻呂、1981年、新潮日本古典集成)。歌の後の( )内数字は出典の通し番号です。句の間の空きはなくしました。
☆ 海と空の歌 十首
わたのはら八重の潮路(しほぢ)にとぶ雁のつばさの波に秋風ぞ吹く (222)
夕されば潮風さむし波間より見ゆる小島に雪はふりつつ (318)
かくてのみ荒磯(ありそ)の海のありつつも逢ふ世もあらばなにかうらみむ (505)
わが恋は百島(ももしま)めぐる浜千鳥ゆくへも知らぬかたになくなり (507)
沖つ島鵜(う)の棲む石に寄る波の間なくもの思ふ我ぞかなしき (508)
世の中は常にもがもな渚こぐ海人(あま)の小舟(をぶね)の綱手かなしも (604)
くれなゐの千入(ちしほ)のまふり山の端に日の入るときの空にぞありける (633)
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ (639)
空や海うみやそらともえぞ分かぬ霞も波も立ち満ちにつつ (640)
大海(おほうみ)の磯もとどろに寄する波破(わ)れて砕けて裂けて散るかも (641)☆ 純真の歌 八首
乳房吸ふまだいとけな嬰児(きみどりご)とともに泣きぬる年の暮かな (349)
ものいはぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ (607)
いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる (608)
かくてのみありてはかなき世の中を憂しとやいはむあはれとやいはむ (609)
炎(ほのほ)のみ虚空に満てる阿鼻地獄ゆくへもなしといふもはかなし (615)
塔を組み堂をつくるも人の嘆き懺悔(さんげ)にまさる功徳(くどく)やはある (616)
神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは (618)
時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ (619) 実朝とはまた異なる詩世界に生きた
藤原定家を、近日のうちに取り上げたいと考えています。
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