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『正徹物語』和歌の難破

 正徹(しょうてつ、1381~1459年)は、室町時代の歌人です。
 出典では次のように紹介されています。禅僧で道号は清厳。多作で一万首超の詠が現存。難解な歌風は保守的な歌壇で異端視されたが、連歌師心敬などに強い影響を与えた。家集に『草根集』、紀行文に『なぐさめ草』がある。新古今集に心酔し、とくに藤原定家を讃仰して止まなかった。

 平安朝末期から鎌倉時代初期に新古今和歌集の華麗な花を咲き匂わせた和歌がどのように移り変わったか、『正徹物語』の三つの段を中心に考えてみます。

●出典・現代語訳の引用(数字は段数)。

109 「(略)和歌はふと吟じてみると、詞(ことば)の続き具合も何となく和歌らしく自然であり、吟じても滑らかに下っていき、理屈っぽくなく、奥が深く優美でもあるのが良い歌である。そして究極の歌というのは、論理を超越したものである。理解しようとしてもどうにもしようがない所にある。これは詞で人に説明するようなことではない。ただ自然と理解すべきことなのである。」

 正徹はこの段で、吟じて調べが優美な歌が良い歌だと、藤原俊成の歌論を受けて述べています。究極の歌とは、論理を超越したもの、詞で人に説明できないものと、和歌の本質を捉えていると私は思います。

●出典・現代語訳の引用(数字は段数)。

「186 「落花」という題で、このように詠んだ。

  さけば散る夜のまの花の夢のうちにやがてまぎれぬ峯の白雲
 (桜は咲いたと思うと夜の間にはかなく散り、夢のうちに消えてしまったが、桜とみまがう白雲は消えることなく峰にかかっている。)

 幽玄体の歌である。幽玄という美は、心の中にはあるが詞では表現できないものである。月に薄雲がかぶさっているのや、山の紅葉に秋の霧がかかっている趣向を、幽玄の姿とするのである。これはどこが幽玄なのかと問われても、どこがそうだとは言えないであろう。これを理解しない人は、月はこうこうと輝いて、一片の雲もない空にあるのが素晴らしいのに、と定めて言うことであろう、幽玄という美は、およそどこがどう趣味が良いとも、絶妙であるとも言えないところによさがある。さて「夢のうちにやがてまぎれぬ」の句は、源氏物語の和歌から来ている。光源氏が、藤壺中宮に逢って、

  見ても又逢う夜稀なる夢のうちにやがてまぎるるうき身ともがな
 (夢のようにはかない一夜の逢瀬を待ちましたが再びは難しいので、このままこの夢の中に消えていきたいと思う。)

と詠んだ歌も、幽玄の姿である。(略)」

 藤原定家を仰ぎ見る正徹が、定家の歌の理想のかたちとみる「幽玄体」を述べた段です。
 幽玄という美は、心の中にはあるが詞では表現できないもの、どこが幽玄なのかと問われても、どこがそうだとは言えない、との捉え方は、的をはずしていないと思います。
 また、ここにあげられた歌に、彼の歌の特徴が現れていると思います。『正徹物語』の他の段にあげられた歌もこの歌に似ていて、私はあまり良いと感じとれません。定家の言葉による虚構世界の構築という方向性を突き詰めようとして、こりすぎたのではないか、三十一文字の制約のなかでの虚構世界の構築に行き詰まり、進めなかったように感じます。異端視されながら、新たに試みた彼が私は好きですが、残念だけれど定家を踏み超えた地に花を咲かせることはできなかった、と感じます。

●出典・現代語訳の引用(数字は段数)。

「193 和歌は極信体(ごくしんたい)で詠んだら、道を踏み外すことはあるまい。しかし極信体はなるほど勅撰集にふさわしい一つの歌風ではありますが、そればかりでは達人の名を取ることは難しいであろう。これは全く御子左家(みこひだりけ)が三流に分かれて以来、次第にこんな風になっていったのである。京極為兼は生涯の間、ひたすら奇矯(ききょう)な歌のみを好んで詠まれたのであった。同じ時代に、二条為世(ためよ)はいかにも謹厳な極信体を詠まれたために、頓阿・慶運・浄弁・兼好といった高弟も、みな師家の歌風を継承して、極信の体だけを歌道の到達点と思って詠みましたので、この頃から和歌がつまらなくなったのである。各流派に分裂する前は、俊成・定家・為家の三代とも、いかなる体をも詠まれていたではないか。
 *極信体。極信は謹厳真摯の意。逸脱のない実直な詠風。」

 正徹はこの段で、定家の御子左家(みこひだりけ)の末流が三流に分かれた頃から、和歌がつまらなくなった、と嘆きます。みんな師家の勅撰集向けに確立された歌風を継承し、逸脱のないまじめな歌ばかりを詠んでいると批判します。
 三十一文字というきつい制約のうえで、まして題詠で、さらに細かな縛り通りに詠めと教えられた通りにしたら、みんな代わり映えのしない、同じような歌にならないほうが不思議です。
 でも確立され崇められた権威に誰も正直にいえません。アンデルセンの『裸の王様』の世界です。
つまらないと感じたことをつまらないと、正徹がこのように率直に書き記せたのは、彼の歌に対する気持が世間体や虚勢ではなかったこと、彼の批評精神が鈍ってはいなかったことを教えてくれます。
 だからこそ彼は、自身の歌を全体の潮流に引き連られない逆の方向に進めようとして、難破してしまったように思います。独力では超え難い時代の壁がそこにあったのだと私は思います。

 他の段では、当時の題詠や歌会の作法が述べられていて、そのよう場から、個の新しい感性が輝きでる歌は生まれ難いと、私は感じました。
 また正徹は他の段で、定家の歌論書『毎月抄』に挙げた「十の体(てい)」を受けて、この歌には余情はあっても幽玄体ではない、というように批評していますが、定められた形に歌を振り分けること自体意味のない、末期的な症状ではないかと感じてしまいました。

 歌人として正徹は不幸な時代に生きたのかもしれません。この時代以降わたしの知る限られた範囲で和歌はつまらなくなった、明治の『明星』の時、夜が過ぎ曙光となり蘇ったのでしょうか。
 それではこの時代の言葉の輝きはどこにあったのでしょうか。ほかの表現のかたち、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』や『閑吟集(かんぎんしゅう)』に伝わる歌謡、能や謡曲、狂言から発せられたのでしょうか。これらのことを考え感じとりたいと思っています。

出典:『正徹物語 現代語訳付き』(小川剛生・訳注、2011年、角川ソフィア文庫)。
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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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