藤原定家(ふじわらのさだいえ、「ていか」。 1162~1241年)の和歌をみつめます。
彼は生涯をかけて和歌に生きました。年齢とともに歌風の変遷はありますが、
三十一文字で言葉による虚構の世界を構築しようとした姿勢は一貫しています。
新古今和歌集の撰者の一人として、
象徴詩と言える領域を先頭で切り拓きました。
でも、
本歌取りを多用し、
『源氏物語』などの情景や言葉を織り込み違う姿で生き返らせる手法と極められた技術は、簡単には真似のできないものです.。その歌を味わうためには、その本歌や物語を知っていること、知らなければ調べることが必要とされるので、近づきがたい弱点でもあります。私もそのような歌は一読して、どこがいいのかよくわかりませんでした。
出典としてあげた
赤羽淑氏の『定家の歌一首』は、そのような私にも、定家の独自の世界を教えてくれました。定家を深く研究された彼女は「歌は本来的に生に密着したリアリズムの文芸」だが、「定家はこのような歌を虚構の次元で構成するいわゆる象徴詩の領域にまで拡充した。」と書きます。
著者の一首一首の解読には定家の歌を感じ尽くそうとする熱意と感性が光り、本歌や織り込められた物語について知ると、その和歌が異なった姿で立ち上る思いがします。
この本のなかでも、次の一首についての章が、定家の歌を全体の視点で感じ取っていることで、特に優れた批評だと思います。
たまゆらのつゆもなみだもとどまらずなき人こふるやどの秋風 まず著者は、この歌の
韻律の構造を分析します。母音構成、脚韻、子音による音の傾向性です。
つぎに、
音数律を分析します。221・2122・221・2221・2122。221・2221という下に向かう動勢の型と、2122という上にはね返す強勢をもつ型とがくり返されて全体として下へ流れてゆく、と。
和歌を声調、音象としてまず感じ取る考察は、萩原朔太郎の主張に連なる優れたものです。
著者は次に、
「ことばの観念と形象」を解析します。「たまゆら」「つゆ」「なみだ」と、歌われた言葉ごとの、
意味とイメージと語感を感じ取ります。
そのうえで展開される考察は、短歌に留まらず、詩についての考えを深めてくれるものです。著者は言います、「語が連続し、重層されると、幾重にも意味やイメージが限定され、また複雑なニュアンスが付加される。」そして、
「語と語はたがいの類似性・共通性を反映しあって輝き出す。存在の奥にあるエレメンタルなものが、互いに呼び合うのである。」 そして著者はここで、
マラルメの象徴詩の核心についての言葉を引き、
定家が言葉で構築したこの虚構の、音象と表象と意味の響きあう世界は美しい象徴詩だ、
フランス象徴詩と通い合うものだと、教えてくれます。(フランス象徴詩に私が思うことはいつか記します)。
この本は、藤原定家の歌の特質、新古今集が創り上げた詩世界を、深く理解し伝えてくれる、素晴らしい、私の大切な一冊です。
(この機会に私が好きな藤原定家の歌たちは、別に「愛しい詩歌」に咲かせます。)
●以下、出典の文章の引用です。 ところで、定家は歌作りといわれ、歌人としては異端者であるといわれる。ということは、歌は詠むべきもので、作るものではないと考えられてきたからであって、そういう意味においても、
歌は本来的に生に密着したリアリズムの文芸なのである。定家はこのような歌を虚構の次元で構成するいわゆる象徴詩の領域にまで拡充した。(略)しかしいかに型破りであっても、歌が歌である限り、その出発点とし、個の抒情を基盤としながら、そこからいかに大きく掛け離れて象徴詩の領域に踏み込むことが出来たか、いかにして現実の自我を捨象して純粋な歌のフォルムに昇華させ得たか、つまるところ、おのれの生の体験と歌のフォルムをどのように出逢わせたか、この母の詩を傷む歌はその謎を解く鍵を与えてくれるであろう。(略)
つぎに、
ことばの観念と形象が奏でる音楽を解析してみよう。
たまゆら(の) 丸さ 冷たさ 透明さ 瞬間
つゆ(も) 丸さ 冷たさ 透明さ こぼれやすさ
なみだ(も) 丸さ 冷たさ 透明さ 悲しさ
とどまらず 変化 無情
なきひと 無情 悲しさ
こふる 愛 追憶
やど(の) 人間の営み 追憶
あきかぜ 寂寥
このように各語が喚起する観念やイメージを順に追って書いてみると、全体的に丸い物体とその変化を追っていることがつかめる。まるで
ことばのしりとり遊びのように前のことばの観念やイメージを受けてつぎのことばを起こしている。体言が多く、「たまゆら」「つゆ」「なみだ」「やど」などの体言がポツリポツリと投げ出され、それを助詞の「の」と「も」が数珠つなぎにしている。(略)これらの
独立した体言が六個集まって、相互にぶつかり、反映し、響き合って、独自の閉ざされた空間を作り出す。 (略)つぎに来る語が連続し、重層されると、幾重にも意味やイメージが限定され、また複雑なニュアンスが付加される。たとえば「たまゆら」は玉が揺れて触れ合う瞬間のことであるが、この玉は緑の曲玉でも白い真珠でもなく、透明でこぼれやすい玉のイメージである。それは、つぎにくる「つゆ」「なみだ」によって限定されるからである。同様に「つゆ」も萩の上露でも思草の葉末に結ぶ露でもない。生きとし生けるものに涙があり、秋の万物に露がある、といった意味での露である。(略)「なみだ」は亡き人を恋う涙であるが、イメージとしては全く露と等価なもの、同質のものとなっている。露の涙であり、涙の露なのである。
自然現象である露が、人間の生理現象である涙と等しくなることは、科学的にはありえないとしても、イメージとしては「たまゆら」も「つゆ」も「なみだ」も一様に丸く冷たく透明であって、また秋風にあえず散りこぼれるものなのである。ここでは玉も露も涙も、現実的な物体性・肉体性を失い、個別的な意味も失って、語と語はたがいの類似性・共通性を反映しあって輝き出す。存在の奥にあるエレメンタルなものが、互いに呼び合うのである。 (略)純粋な作品の中では、語りてとしての詩人は消え失せて、ことばに主導権を渡さなければならない、と
マラルメは言う。そして、
「語は、一つ一つちがっているためにその間に衝突を生じ、こうして、いわば動員状態におかれている。
ちょうど宝石を灯りにかざすと、長い光の線が虚像として見えるように、語と語はたがいの反映によって輝き出す。それが従来の抒情的息吹きの中に感じられた個人の息づかいや、文章をひきずる作者の熱意などにとってかわるのである。」(
「詩の危機」)(略)
詩のことばについてのこの考え方は、定家のこの歌を批評するのにふさわしいのではなかろうか。「たまゆら」「つゆ」「なみだ」などの
語は、宝石のような硬質のイメージをもって、互いに反映し合い、ぶつかり合い、響き合うのである。それは言語の意味統一の相とは次元を異にし、また主観的な抒情のぬくもりを伝えることばでもない。(略)
出典:
『定家の歌一首』(赤羽淑、1976年、桜楓社)。マラルメ「詩の危機」(南條彰宏訳、筑摩世界文学大系48)。
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