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『詩学序説』新田博衛(五)主観的な体験の真実性。詩を芽吹かせる感動の種。

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回は、詩という矛盾を孕んだ表現行為についての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
 詩の言表主観は詩人の自我と同一であり、そこから切り離すことができない。これは、詩の言葉が言語表現一般の言葉と同一であり、単語の意味についても、構文論的規則についても、詩以外の言葉と外見上は見分けがつかなかったのに対応している。(略)
 しかしながら、生身の人間としての詩人が純粋に体験伝達だけを意図して言語表現を行なったとして、それだけで、はたして詩が成立するかどうかは疑わしい、と言わねばならない。
 詩の言表内容が、(略)「主観的真実性」としてのみ受け取らるべきものであるにせよ、その主観的真実性は、相対的な主観―客観極の内部に位置を占めている詩人の自我によっては表明されえないであろう。
 なぜなら、そこにおいて語られた言葉は、それを語る主観の意思に関係なく、言語表現一般の構造にしたがって、自動的に客観的世界の解釈と見做され、真偽の検証を受けざるをえないからである。(略)     ●出典の引用終わり。

◎今回の箇所も、かなり観念的な考察のように感じますが、私なりの言葉で考えてみます。詩は日常の言葉を用いて創られますが、前回みたように、詩は客観的な世界解釈ではありません。科学のように世界を厳密に「説明」しようとする試みではありません。いくら未来に科学が進歩しても人間がいることの理由、意味を人間には科学の言葉で解読し説明することは不可能だという、あきらめ、絶望、沈黙にたちどまり、それでも言表しよう(表現し伝えよう)とする人間の言葉による表現です。
 この箇所で著者は、詩人が生身の人間としてただ「主観的真実性」を述べただけでは、詩にならない、科学の言葉と同じレベルの「説明」にすぎなくなってしまうと、言っています。
 このことは、詩を書く人間が、心するべきことだと、私は思います。「説明」の言葉は詩ではありません、「説明」できないからこそ、詩の言葉、詩句を紡ぐのです。著者はどのようにしてか?と考察を進めます。

●以下は、出典からの引用です。
 それは、詩人の自我の自己超越によって初めて達成されるものではないであろうか。詩人の自我が相対的な主観―客観軸を主観極へ向って絶対的に超えるとき、そこに成立する言語主観が「詩的自我」ではないであろうか。われわれの純粋主観性はそのようなものであった。
 「詩的自我」は、しかし、これによって、詩人の自我と別の自我に、虚構の自我になるのではないであろう。それは、相変らず詩人の自我と同一でありつつ、言表内容は体験の真実性を保つであろう。
 詩人の自我と同一でありつつ、しかも、それを超えること――ここに「詩的自我」の矛盾がある。
 われわれの純粋主観性は言語の側から見れば一種の自己矛盾にほかならなかった。
 それは、詩人の側から見ても、そうではないであろうか。
 しかも、この矛盾を矛盾のままに成り立たせているところに詩の秘密があるとすれば、それを可能にしている原動力を、どうしても詩人の内か、あるいは、言語の内かに求めねばならないであろう。(略)     ●出典の引用終わり。

◎この箇所も観念的に無理やり概念で説明しているように思います。次の叙述など心理解剖学のように図式的に感じます。
 詩人の自我が相対的な主観―客観軸を主観極へ向って絶対的に超えるとき、そこに成立する言語主観が「詩的自我」。
 ただ、著者自身は、矛盾であることを意識しつつ述べています。
「詩人の自我と同一でありつつ、しかも、それを超えること」。
 このような観念的な表現を私は好みませんが、詩を書くという行為、詩を創る人が、矛盾を抱えつつ矛盾を生きる変わり者、苦しい行為であることを、著者は理解していて、伝えようとしていることを、理解すればいいと考えます。

 「自我」の解読よりも大切だと私が考えるのは、「主観的真実性」、体験の真実性です。「自我」がどのようなものであれ、詩を創ろうとする詩人の魂に、「主観的真実性」、体験の真実性がなければ、詩は生まれません。
 その強さ、伝えずにはいられない強さをもつかどうかが、言葉を詩の言葉、詩句にまで高められるか、出来事についてのたんなる「説明」、詩の装いをした散文、行分け散文にしかならないか、を分け隔てるものだと私は考えます。
 さらにわかりやすく、真実をとらえた言葉にするなら、古今集の、優れた仮名序にいう「やまとうたはひとのこころをたねとして」です。
 詩人の心に感動があるか、詩を芽吹かせる感動の種があるかどうかです。真実は単純な姿に宿ると私は思います。

次回以降、著者は、矛盾だらけの詩という表現を可能とするものを考察していきます。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。


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絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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