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『詩学序説』新田博衛(四)最終的な世界解釈、沈黙を語ろうとして。

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回は、詩の言葉の特質と、詩そのものの本質についての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
 詩の言葉は幾つかの目立った徴表を持っている。要約すれば、
(1)言語表現として異様なほどの安定性。品詞による語の運動エネルギーの差が無くなり、その結果、言語に特有の浮動性がその波を鎮める。
(2)語の質量性。文中の各語は品詞性を剥ぎ取られて均等化されるが、均等化の方向は論理と反対である。すべての語は質量性の度を高め、あたかも表現されている事態と同一であるかのように見えてくる。そして、
(3)語の意味の音楽内在性。これが、言い換え可能という言語の特色を詩から奪いさり、その表現をオノマトープや音楽の領域に近づける。それが構文的秩序とは別の音声的秩序に従うのも、このためである。
 この三つの徴表は、同じ一つの事柄、詩の表現における純粋主観性の異なった局面である。(略)   ●出典の引用終わり。

◎著者はここで、詩の言葉の特徴を照らし出します。的確ですが、硬質な概念による把握となっていますので、それぞれについて、書き手としての私なりの感じ方、考えにしてみます。
(1)詩作品のなかの、どの言葉も、同じ、重要な、詩句です。名詞も、動詞も、形容詞も、副詞も、代名詞も、接続詞さえ、詩作品のなかでは、おかれた位置を動かせない重みを、作者は与えます。作品のなかの言葉、詩句とされたとき、どの言葉も、他の言葉に、もう置き換えられません。
(2)少しわかりにくいですが、質量=重みと捉えると、どの詩句も品詞に関わらず同じ重みをもつこと。その「方向は論理と反対」とは、散文は品詞それぞれが役割分担をして「意味」「論理」を伝えることをその目的とするので、言葉の順序、言葉自体を置き換えてもその目的さえ果せば問題ありません。それに対して詩での言葉では、品詞としての役割は重要視されず、薄れ、無視され、ただ音と文字の形として他の詩句と結ばれ響きあうこともあることを指しています。
(3)語の意味の音楽内在性。音声的秩序。著者は、「言い換え可能という言語の特色を詩から奪いさ」るものをこの点に絞っていますが、前回記したように文字の形と位置も同じく詩にとって重要です。絵画としての特性です。
「けどKEDO」「だけれど」「けれども」「だが」「そうなんだけど」は、散文では同じ意味を果すので入れ替えられますが、詩に作者が詩句として「けど」をおくとき、「KEDO」という音と二文字の形が詩のその箇所に位置づけられ結ばれるので、詩を壊さずには置き換えができません。

●以下は、出典からの引用です。
 純粋主観性は、言語表現一般の内部における相対的な“主観―客観”の対立を、表現の主体である話し手へ向って超えている。その結果、言葉は、先に挙げた三つの徴表を身に帯びることになる。(略)   
詩の言葉は、われわれの考えによれば、たんなる伝達の道具でないことはもちろんであるが、さらに、主観の表出の具でさえもなかった。詩は、およそ言語表現の困難な場所において、もしそう言って差支えないのなら、言語表現のほとんど不可能な場所において、成立していた。
 詩が何かを表出しているとすれば、それは、言表主観がまさに言葉を失なおうとする状態、沈黙に逢着した状態以外のものではありえない。しかしながら、詩人は、この状態をほかならぬ言語によって表現するのである。詩人とは、言葉によって沈黙を語る奇妙な存在のことである。もしくは、沈黙に惹かれればひかれるほど、ますます言葉巧みにならざるをえない矛盾した存在のことである。
 そして、この場合、言葉とは浮動的・未完結的世界解釈を指し、沈黙とはその世界解釈の安定的完結を指していた。
 後者を消極的に捉えれば、世界解釈のたんなる断念、言語表現のたんなる放棄となるであろう。それは、世界を相対的な主観―客観極の内部に浮動させたまま放って置く、ということである。
詩人の逢着する沈黙はこれと逆である。それは、相対的な主客の対立を超え、言葉によって世界を絶対的に安定させようとするとき、必然的に立ち現われてくる沈黙であり、したがって、言葉を忌避するのではなく、むしろ、積極的に言葉を求める沈黙である。
 詩人は一挙に最終的な世界解釈を語ろうとする。言語表現一般の範囲内で辛抱強く、地道に世界解釈の成果を積み重ねつつある科学者の眼に、詩人があるときは羨ましいほど大胆で、知慧に満ちた人間に移り、あるときは無謀で、愚かしく、傲慢な人間に映るのはこのためである。
 また、日常言語の範囲内で物事を記録し、心情を表明し、実践目的を指示することに腐心しているわれわれの眼に、詩人が巧みではあるが空疎で謎めいた言葉を語る、益体もない人間に映るのもこのためである。(略)   ●出典の引用終わり。

◎この箇所も、概念が生硬に感じられますが、詩の本質をとらえていて、なぜ詩人が、詩という表現を選び、作品を創るのかを伝えてくれていると、私は思います。
「言葉とは浮動的・未完結的世界解釈を指し、沈黙とはその世界解釈の安定的完結」
「相対的な主客の対立を超え、言葉によって世界を絶対的に安定させようとする」
「詩人は一挙に最終的な世界解釈を語ろうとする」
 これらの言葉は、フランスの詩人マラルメが、自分の詩の作品世界が一冊の本として虚空に浮かぶとき宇宙そのものとなる、と感じ考えそれが彼の真実であったことと通じ合います。この思いは私自身の真実でもあります。
 
 生きていること、この宇宙に、世界に、社会にいること、永遠と無限のなかに、いることの意味をわからず投げ込まれていることを、感じるとき、まずわたしには「なにもいえない」というあきらめに似た、おののきがあります。沈黙です。
 同時にけれども、「伝えずにはいられない」、とても強いものがこころにあります。それを探しつかもうとすることが生きることに思えます。それを表現できる言葉は「詩」です。「詩」でないと伝えられない、沈黙、言葉にならないものを言葉に、矛盾していますが、詩人の真実を伝えていると私は感じます。
 著者は次回以降、どのようにして?と考察をすすめていきます。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。


 ☆ お知らせ ☆

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 イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
    こだまのこだま 動画


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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