中国の戦国時代に生きた
諸子百家の一人、
墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書
『墨子』から読みとり考えています。全6回です。
最初にいま『墨子』を読み返しながら、私が感じ想うことを書き記します。
この数年、この国の政治屋の自己本位な暴言で、日本と中国、韓国の国家関係は歪み、政治本来の役割である対話と利害調整すら行なえなくなっている状態は悲惨です。私個人は大切な仕事をできない政治屋は早くやめてより優秀な人物にしたほうがよいと思います。
ただ、いがみあう政治屋集団の言動はひどく矮小な言動で、有益なことを何も生まない衝突を、どちらの地にすむ大部分の生活者は望んでなどいないことを忘れずにいること大切だと思います。
私が愛する文学も文化も、人為的で恣意的な国境などに遮られることも妨げられることもなく、交流し影響しあい、互いの良さを取り入れ育てあってきたことは、漢字、仏教を例に挙げるまでもなく明らかです。
もうひとつ忘れてはいけないのは、中国の戦国時代の諸子百家、たとえば性善説と性悪説に典型的にあらわれていますが、同時代のそれぞれの地域、民族、国家のなかにも、正反対の、対立しあう思想、考え方が入り乱れていることです。海と国境を隔てあう地にこそ、共感できる考え方、生き方があることのほうが多いとも思います。
その例として私自身は、この国の厭わずにいられない暴言にさえ無感覚な政治屋よりよほど、中国戦国時代に生きた墨子の考え方、生き方に共感するし尊敬しています。彼の言葉が伝えられた『墨子』には、人類、地球のこれからを考えるときに教えられる豊かな可能性があります。
民族を行き来して互いの独自性を讃えながら豊かにしあえるのは、文化です。何ものも生み出さない、政治、その最も無能で最悪の選択である戦争などでは決してありません。
文化は心を深め人生を豊かにする可能性ですが、誤った政治の袋小路にある戦争は破壊、そこに笑顔も未来もありません。
前書きが長くなりましたので今回は、『墨子』のなかの、弟子が彼の言動を記録した「貴義篇」と「魯問篇」から二つの章を引用します。
1.貴義篇の言葉 前書きに記したように、「一国の大臣」も職業です。公約を実行する代理人として選ばれたのだから、約束とまかされた役目を、果たせなくなったとき、選んだ有権者が果たしていないと判断したときには、辞めて、約束を果たしうる者に代わるのは、あたりまえのことです。
それを行なわない者はもう代理人としての信任をなくしています。ただ自分個人のためにしがみつくのは、社会にとって有害でしかないと私は思います。
2.魯問篇の言葉 この章は、次回以降にとりあげる主題である「天志」と「非攻」について墨子の言動を伝えてくれます。
「非攻」。戦国時代に墨子と彼が率いた墨家集団は、大国が小国に戦争を仕掛けるのを、この話のように実際に止めさせもしました。攻め込まれる小国の守備、防衛を請け負ったりもしました。
「非攻」を主題とする回に、より詳しく深く考えたいと思いますが、私は彼らの考えと行為によって、弱い立場の生活者、老人、女性、子どもたちが、殺されずにすんだのだから、素晴らしいことだと考えます。
「天志」。次回に詳しくとりあげ考えます。この章を読んで私は思います。為政者、戦争を起こす者は、必ずもっともらしい大義、彼の主義主張を普遍的な正義「天の意志」に命じられたかのように、ヒロイックに演じます。けれど、そのことによってひき起こされた戦争に巻き込まれ、傷つけられ、殺された者にとって、どんなにもっともらしい大義であろうと、それは悪でしかありえません。
わたしは他者に対して悪を行なって許される人間は誰一人としていないと思います。「戦争するしかない」という最悪の判断を演じることに拒否感覚さえ持たず、あらゆる方法を検討してよりましな戦争を回避する手段を見つけられないような、無能な政治屋は、はやく代えないと、社会に生活している一人ひとりの有権者にとって、有害だと思います。
●以下は、出典からの原文引用です。■ 貴義篇から。
墨子先生はいわれた。「世の中のりっぱな人々は、一匹の犬や一匹の豚の料理長を命ぜられた場合には、もしできなければそれを辞退する。ところが、一国の大臣を命ぜられた場合には、たとえできなくても引き受ける、なんと矛盾したことではないか」
出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)■ 魯問篇から。
<解釈> 魯陽(ろよう)の文君(ぶんくん)が鄭国(ていこく)を攻めようとした。子墨子が聞いてこれを止め、魯陽の文君に言われた、今、魯陽の境内で、大都(だいと)が小都を攻め、大家が小家を伐ち、その人民を殺し、その牛馬、犬豚・布帛(ふはく)・米粟・貨財を奪ったとしたら、どうなさいますか、と。魯陽の文君が言われた、魯陽は四境の内みな私の臣下である。今、大都(だいと)が小都を攻め、大家が小家を伐ち、その貨財を奪ったとしたら、私は必ず重罰を加える、と。子墨子が言われた、そもそも天が天下を兼ね領有していることは、あなたが魯陽の四境の内を領有しているのと同様です。今、兵を出して鄭を攻めようとしておられるが、天の誅罰が下らないでしょうか、と。魯陽の文君が言われた、先生はどうして私が鄭を攻めるのを止めるのですか。私が鄭を攻めるのを止めるのですか。私が鄭を攻めるのは、天の志に従っているのです。鄭人(ていじん)は三代その父を殺したので、天が誅罰(ちゅうばつ)を加えて、三年勘不作続きにしたのです。私は天の誅罰を援助するのです、と。子墨子が言われた、鄭人は三代その父を殺したので、天が誅罰を加えて、三年間不作続きにしました、それで天の誅罰は十分です。今また兵を出して鄭を攻めようとして、自分が鄭を攻めるのは天の志に従うのであると言われます。たとえばここに人があって、その子が豪強で役立たずなので、父はその子を笞(むち)で打ったとします。隣家の父親が木を振ってまたこの子を打って、自分がこれを打つのはその父の志に従ったのだと言ったら、何と道理に合わないことではありませんか、と。
出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院) 最後に、今回の主題と響きあう
私の詩「いま、ここで」をこだまさせます。(作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)
戦争がもたらす悪があるように、原発がもたらす悪はあります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。
次回も、『墨子』の世界、まず「天志」を感じとります。
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