ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスの「夜の讃歌」に前回は心を研ぎ澄ませました。彼の詩想を二回に分けてみつめます。
彼の言葉を読んでいると私は、
北村透谷(
「空(くう)の空の空を撃つ。北村透谷」)の熱意に満ちた言葉を思い起こし、二人に響き合うものを感じます。
完成された論述でも体系だった論文でもない草稿と断章であることと、厳密な概念を翻訳では推し量れないことから、私にはよく理解できない部分も含まれますが、誤読であっても木魂すること響き合えることが大切だと、私は考えています。
彼の言葉を出典から断章ごとに「カッコ」内に引用(赤紫文字は強調のため私がつけました)し、続けて
私の心に呼び覚まされた詩想を☆印の後に赤紫文字で記します。
1.「一般草稿」から。 「(略)われわれの言葉は――当初ははるかに
音楽的であったが、しだいにかくも散文的に――かくも調子はずれに――なってしまった。現在ではむしろ騒音になり、喧しいとすら言えるものになってしまった――もしこの
美しい言葉をかくも卑しめて言うとすれば。われわれの言葉は
ふたたび歌にならなければならない。子音は、音色を耳障りな音に変えてしまう。」[245]
☆ 日本語も概念の説明手段、伝達記号として扱われ散文化しています。文学をみても小説の言葉は音楽的で美しくもありません。それにつれ、日本語の言葉の響き、音色、調べを感じとる感性は鈍く衰えていきます。だからこそ、詩を愛するひとりとして日本語を「ふたたび歌に」したいと私は願います。 「音楽と律動論 総合文〔棹尾文〕における――大々的な――ヘクサメーター。大々的なリズム。この
大きなリズム、この
内的な詩的メカニズムが頭のなかにあるひとは、意図的に働きかけなくとも、うっとりするほど美しくものを書く。最高の思索がおのずからこの独特な
振動に共振し、相寄ってこよなく豊かで多様な秩序をなすとき、音響芸術の奇跡を語る古代の
オルフェウス伝説の深い意味や、宇宙万有を形成し、鎮静させる
音楽についての神秘的な教えのもつ深い意味が、浮かび上がってくる。ここで、
魂の音響的本性へ深く鋭い視線を投げるなら、光と思索の新たな類似性が見出される――なぜなら両者は、共振するものだからである。」[380]
☆ 万葉集の長歌の揺り返す言葉のリズムや、美しい和歌の調べを繰り返し読み返していると、暗唱まではしていなくても、その言葉のリズムが心に海をつくってくれて、文章を書くときに自然な言葉の波の揺れ動くリズムを呼び覚ましてくれます。日本語は言霊(ことだま)を感じ取ることができる心から心へ、時を越えて受け継がれてきました。魂の音響的本性は、人類に普遍的なもので、信仰の違いを越えて祈りの唱和や信仰歌を美しいと感じる心を人間は本姓として心の底に地下水として秘めている、そこから泉を地上に湧きあげることができると、私は思っています。 「メルヒェンは、いわばポエジーの規範〔カノン〕である――
詩的なものはすべからく、
メルヒェン風でなければならない。詩人は偶然を崇める。」[940]
☆ 詩的なものは、メルヒェン風。そのとおりだと私は思います。
出典:
「一般草稿」『ノヴァーリス作品集Ⅲ』(小泉文子訳、筑摩文庫、2007年)。(強調の傍点は省略しました。)
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