ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスの詩想をみつめています。
彼の言葉を出典から断章ごとに「カッコ」内に引用(赤紫文字は強調のため私がつけました)し、続けて
私の心に呼び覚まされた詩想を☆印の後に赤紫文字で記します。
2.「断章と研究1799-1800年」から。 「長編小説(ロマーン)は、徹頭徹尾
ポエジーでなければならない。すなわちポエジーとは、哲学とおなじく、われわれの
心情を美しく調律したものであり、そこではあらゆるものが美化され、どんな事物もそれにふさわしい外観をとり――あらゆるものが自分にぴったり合う連れと仲間を見出すのである。真に詩的な書物では、すべてがいとも
自然に見えながら――いとも
不思議に見えもする。読者は、
まさしくこのとおりだと思い、あたかもついさっきまでこの世界でまどろんでいたかのように――いま
はじめて世界に対する正しい感覚が生じてきたかのように思うのである。追憶と予感はすべて、まさしくこの源から湧き出ているように思われる。――
イリュージョンにとらわれている現在も――つまり、観察している当の対象すべてのなかにいわば入り込んだまま、複数のものが
諧和するという無限でとらえがたい一体感を味わっている刻々の時間も――やはりこの源から湧き出ているように思われるのである。」[21]
☆ ポエジーの本質をみごとに捉えていると感じます。心情の美しい調律であること、新鮮な再発見、未知を発見する感動、不可思議な無限なひろがりとの一体感、これがポエジーです。 「なんらかの目標に近づいたときに無用な言葉を聴かされるのは、気持ちのよいものではない。
詩(ポエジー)は、無用な形成物――自己自身を形成するもの――である。だから、もし不適切な場所で詩を目にすれば、まったく我慢ならないものと映るにちがいない。――また詩が
理屈をこねたり、
議論しようとするなら、いや、そもそも
まじめな顔つきをしようとするなら、それはもはや詩ではない。 詩は効果をねらってはならないということは、わたしにもわかっている――激しい感情的反応は、病気とおなじく、それこそ致命的なものである。
レトリックさえも、国民病や妄想の治療のために方法をわきまえて用いるというのでなければ、誤った技法でしかない。激しい感情的反応というのは、薬剤と同じであり――これを玩んではならない。 明晰な悟性と暖かな
想像力(ファンタジー)が緊密に結びつくと、魂に健康をもたらす真の糧となる。悟性は、予測どおりの決まった道しか歩まない。」[35]
☆ 詩は、理屈でも議論でもない、心が知らないうちに感じとる喜び、感動です。その世界が想像力のふくらみを持てるとき、読む者の魂に自然な微笑みを生んでくれます。 「物語は、夢とおなじく、脈絡がないが、連想に富んでいる。
詩作品は――もっぱら
快い響きと美しい言葉に満ちているが――いっさいの意味と脈絡を欠いており――せいぜい個々の詩節が理解できるだけである。詩作品は、多様きわまりない事物の断片のようなものとならざるをえない。せいぜい
真の詩(ポエジー)が、
全体として寓意的な〔アレゴリー的な〕意味をもち、
音楽などのように間接的な作用をおよぼしうるだけである。それゆえ、
自然は純粋に詩的なのだ――魔術師や――自然学者の部屋――子供部屋―食料貯蔵室もそうである。」[113]
☆ 詩は、快い響きと美しい言葉に染まりながら、美しい自然に身を置き包まれたときのように、その全体の流れの中で快い喜び感動を感じるものだと、私も考えています。 「ポエジーを生み出すのに、
抒情詩人は感情や思索やイメージによるのに対し、長編小説の作家は、出来事や対話、あるいは反省や描写によって生み出そうと努める。
ゆえに、すべては方法、つまり、
芸術家の選択術と結合術にかかっているのだ。」[549]
☆ ポエジーは、芸術家が、方法により、選択し結び合わせ、生み出すもの、あたりまえだけど、とても大切なことだと思います。 「ポエジーは、
心情――その総体における
内的世界――の表現である。ポエジーの媒体である言葉がすでにそのことを示唆している。というのも言葉は、あの内的な力の圏域が外部に示現したものだからである。それは彫刻と外部の形象世界との関係、あるいは音楽と音との関係にまったくひとしい。効果は――それが具体的なものであるかぎり――ポエジーにまったく対立する。一方、
音楽的ポエジーというものもあって、これは心情そのものを動かし、さまざまに
戯れさせる。」[553]
☆ ポエジーは、心情、内的世界の、表現。音楽的ポエジー、戯れ。これらの言葉を通して彼の言いたいことがわかる気がします。 「
心情の表現は、自然の表現と同じように、
自発的で、独自でありつつ普遍的で、結合的でありつつ独創的でなければならない。あるがままではなく、
ありうる姿、あるべき姿を表現しなければならない。」[557]
「ある詩作品が、個人的なもので、場所や時間も限定され、独自なものであればあるほど、ポエジーの中心にいっそう近づく。ひとりの人間やすぐれた格言と同じく、
一個の詩作品も、汲みつくせぬものでなければならない。(略)」[603]
☆ ノヴァーリスが自分に言い聞かせているようなこれらの言葉に、詩を書くひとりとして共感します。 「
詩に対する感性は、神秘主義に対する感性と多くの共通点がある。それは、独自のもの、個性的なもの、未知のもの、神秘的なもの、示現すべきもの、必然的に偶然的なものに対する感性である。それは表現しえないものを表現し、目に見えないものを見たり、感じられないものを感じたりする。詩を批評するのは、ばかげたことである。判定を下すのがそもそも難しいのだが、唯一可能な判定は、それが
ポエジーか否かということである。詩人は真に感覚を奪われて〔熱狂して〕いるが――そのかわり、いっさいがかれの内部で生起するのである。詩人は、最も本来的な意味で、主観と客観を――すなわち、
心情と世界を――表現する。すぐれた詩作品の
無限性や永遠性は、まさにここに由来する。詩に対する感性は、予言に対する感性や、
宗教的感性、見者の感性一般と親近性がある。詩人は秩序づけ、統一し、選択し、発明する――なぜ、ほかならずそうするのかは、詩人自身にはわからないのである。」[671]
☆ 詩に対する感性と、神秘主義、無限性や永遠性、宗教的感性には、共通点と親近性があると、私も思います。詩の批評で可能なのは、ポエジーか否か、だという彼の言葉に、私の詩観もとても近くて、私にとって詩、好きな詩は感動があるか否か、そこにしかありません。
「詩人は、自分とは異なる考えを思い描いたり、思考をあらゆる種類の結論にいたるように導き、きわめて多様な表現で叙述したりする能力を身につけていなければならない。
音楽家は、さまざまな音や楽器を自分の内面に浮かび上がらせ、それらを自由に活動させて、さまざまな仕方で結びつけることができ、その結果、いわばそうした音響や旋律の生きた精神となり、同様に、彩色され形姿の発明者とも名人とも言うべき
画家は、それらを思いのままに変化させ対置したり並置したりして多様化し、あらんかぎりの種類のものを個々に作り出すことができる。そのように
詩人も、あらゆる事物や行為に宿る
発話する精神を、さまざまな衣装をまとわせてあらかじめ形成し、あらゆるジャンルの言語作業を完成させ、それらに
特別な独自の意味を吹き込むことができるようでなければならない。あらんかぎりの対象に満ち、さまざまな条件のもとで、無数のさまざまな人間のあいだでなされる会話、書簡、講演、物語、説明や情熱的な激白を、詩人は発明し、それにふさわしい言葉で紙の上にもちきたすことができなければならない。詩人は、あらゆるものについて、愉しく意味深い調子で語らなければならないし、その
語りや記述そのものが、詩人自身を書くことや語ることへと熱狂させるのでなければならない。」[685]
☆ 最後の一文に共感します。本当にいい詩は、書く詩人自身が本当にいいと感じている詩です。書いた者自身が感動する言葉の響きだけが、他者の心をもふるわせると、私は思っています。 「
詩(ポエジー)の本質はいったいどこに存するかは、しかと定めることはできない。それは
無限に複雑でありながら、単純でもあるのだ。美しいとか、ロマン的とか、調和的というのは、詩的なものを部分的に表現したものにすぎない。」[690]
「詩人の国こそ、時代の焦点に押し出された世界としなければならない。詩人の計画と実行は詩的なもの、すなわち、詩的本性〔自然〕のものでなければならない。詩人はいっさいを用いることができるが、それをただ精神と融合させ、そこから一なる全体を作らねばならない。
普遍と特殊をともに表現しなければならない――あらゆる表現は対比的なもののなかにおかれ、自由に結合できることが、詩人を無制約なものにする。詩人の本性はみな自然なのだ。自然のあらゆる特性が詩人の本性にそなわっている。それがどんなに個別的であるにしても、普遍的に関心を呼ぶものでもあるのだ。
精神や心を沸き立たせない叙述、生命なき自然の生命なき叙述は、われわれにとって、なんの役に立つだろう――たとえそれが心情のさまざまな遊戯を生み出さないとしても、その叙述は、少なくとも、自然そのものと同じように
象徴的でなければならない。自然が理念を担っているか、あるいは心情が自然を担っているかでなければならない。この法則は、全体においても、個別においても、有効でなければならない。詩人は絶対に利己的な姿を現してはならない。詩人は自分自身が現象でなければならない。哲学者が観念の自然的預言者であるとすれば、詩人は自然の観念的預言者である。詩人にとってはすべてが客観であり、哲学者にとってはすべてが主観なのだ。
詩人は宇宙万有の声であり、哲学者は最も単純な一者、すなわち原理の声である。
詩人は歌であり、哲学者は語りである。前者の差異性、無限なものをひとつに統一し、後者の多様性は最も有限なものを結合する。詩人は
永遠に真実でありつづける。詩人は自然の循環のなかに踏みとどまるのだ。哲学者は永遠に不変なもののなかでみずからが変わっていく。永遠に不変なものは、変化するものにおいてしか、表現できない。永遠に変化するものは、持続するもの、全体的なもの、現在の時間のなかでしか表現できない。その前後では、その似姿があるだけである。自然はしかし、実在なのだ。詩人のあらゆる表現は
象徴的か、感動的かでなければならない。ここで感動的というのは、一般に触発的という意味である。象徴的なものは直接には触発せず、自発性をうながす。象徴的なものは刺激し、興奮させるが、感動的なものは、掻きたて、突き動かす。前者は精神の活動であり、後者は受苦である。(略)その昔、詩人はあらゆる人びとに対し、いっさいであった。その活動圏がまだまだ狭く、人間はみな、知識、体験、習慣、性格においてほぼ同等だったからである。欲求が今より単純でありながら、ずっと強かったあの世界では、詩人のように欲求をもたぬ人間は、人びとをしてみずからを超えさしめ、
自由のより高い価値を感じさせることができた。刺激感受性がとても清新だったのである。」[705]
☆ 詩は、無限の複雑と単純、普遍と特殊を含み込み、精神や心を沸き立たせてくれる。詩人は歌、宇宙万有の声、永遠に真実であり続け、象徴的か、感動的か、いづれかの表現で自由のより高い価値を人びとに感じさせる。そうだ、と私の心は共鳴します。詩を生むことで、作品を響かせることで、そうありたい、と私は願います。
出典:
「断章と研究1799-1800年」『ノヴァーリス作品集Ⅲ』(小泉文子訳、筑摩文庫、2007年)。(強調の傍点は省略しました。)
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