中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、
墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。
今回の主題は、
天志です。
天志とは、天の意志、中国では古代から「天」という言葉で表わし伝え合おうとしてきた意味、概念を、他の諸民族の言葉で表わすと、「神」、「仏」、「自然」がもっとも近いと思います。
次回以降に読み取っていく墨子の考え、世界観、社会観のよりどころとして、あらゆるものの上に、彼は「天」を指し示します。
「天志(てんし)篇」で伝えられた『墨子』の言葉は、エッセイでみつめた
ルソー『エミール』の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の言葉と、美しく木魂しあっていると私は感じます。
(『墨子』紀元前400年頃中国、『エミール』1760年頃ヨーロッパ、今年2014年日本、時と地域を越えて、共鳴しあえるのが、人間の心、想い、文学の素晴らしさだと、私はいつも感じています。)
墨子の言葉は、短く直接的で、比喩もとても単純です。考えを、ずばりと、投げかけてきます。例えば次の言葉のように。
「天は正義を望んで、不正義を嫌うものである。」
世界中の多くの宗教、信仰で語られている言葉、信仰はしていなくても生きた、生きている一人ひとりの人間が心に抱いている想いと、こだまする言葉だと私は思います。比喩も論証も必要ではなく、できることではなく、全く反対に「天は不正義を望んで、正義を嫌うものである。」と言うことすらできても。
生きる姿勢に関わるからだと私は思います。生きようとするとき、天に正義をもとめ、天も不正義ではなく正義を意思していると、感じ、考え、望み、信じる、これが人間の心の深層にある、人間性の根幹そのものだと私は考えます。
墨子の次の言葉は、とても美しくて、心に沁みひろがる、さざなみのように響きます。
「天が世界じゅうの人々を愛しているというのはどうしてわかるのか。それは、天があまねく平等に人々を照らしているからである。」
人間には証明できないことであっても、「世界じゅうの人々を愛している」「あまねく平等に」と、宇宙、世界、社会を感じとろう、見つめようとする人、意思し生きようとする人間が私は好きです。私だけではないと思っています。
●以下は、出典からの原文引用です。第二十六 天志(てんし)篇 上一 墨子先生がおっしゃったことは次のようである。
今日、世界じゅうの知識人は、目先のことはわかっていても大局を知らない。
(略)
そこで諺(ことわざ)にも「この明るい太陽の下で罪を犯したなら、どこに逃れるところがあろう。どこにも逃避するところはないぞ」といわれている。そもそも天は、山林や渓谷の奥深い静かなところでも、人がいないから何をしてもよいということを許さない。天の明察は必ずこれを見ぬくのである。ところが、世界の知識人たちは、この天に対する場合にはうっかりして警戒することを知らないでいる。(略)
二 それでは、天はいったい何を望み、何を嫌うのであろうか。天は正義を望んで、不正義を嫌うものである。したがって世界じゅうの民衆を指導して正義に努力してゆけば、それで自分は天の望むことを行なっていることになる。こちらが天の望むことを行なっていくなら、天のほうでもこちらの望むことをしてくれるのだろう。(略)
それでは、天が正義を嫌うというのはどうしてわかるのであろうか。それはこうである。世界じゅうに正義が行われていれば、すべてのものが生きていけるが、不正義であれば、死滅する。正義が行なわれていれば、すべてのものが豊かになるが、不正義であれば、貧しくなる。正義が行なわれていれば、すべてが治まるが、不正義であれば、乱れる。してみると、天は万物の生存を望んで死滅を嫌い、豊かになるのを望んで貧しくなるのを嫌い、治まるのを望んで乱れるのを嫌うのであって、そのことから天が正義を望んで不正義を嫌うということがわかるのである。
三 ところで、そもそも正義というのは、政(せい)すなわち人を治め正すことである。そして、下の者が上の者を治め正すということはなくて、必ず上の者が下の者を治め正すのである。(略)しかし、天子とてもなお自分の考えで人を治め正すことは許されない。天が上にあって、天子を正すのである。天子が、三公や諸侯から士や庶民に至るまで、すべての人々を治め正すということは、世界じゅうの知識人たちは、もちろんはっきり知っている。しかし、天が天子を治め正しているということになると、世界じゅうのすべての人々は、まだそのことをはっきりとわきまえることができないでいる。
四(略)天の意思にしたがう者は、ひろく愛しあい互いに利益を与えあうのであって、その結果はきっと天からの賞与を得るであろう。しかし、反対に天の意思にさからう者は、差別して憎みあい互いに損害を与えあうのであって、その結果はきっと天罰を受けるであろう。
五(略)
六 それでは、天が世界じゅうの人々を愛しているというのはどうしてわかるのか。それは、天があまねく平等に人々を照らしているからである。では、天があまねく平等に照らしているというのは、どうしてわかるのか。それは、天があまねく平等に人々を抱擁しているからである。では、天があまねく平等に抱擁しているというのは、どうしてわかるのか。それは、天があまねく平等に人々から食糧をうけているからである。では、天があまねく平等に食糧をうけているというのは、どうしてわかるのか。全世界の中で穀物を食べているほどの民は、お供えの牛や羊を飼い、犬や豚を養い、器に盛った供物や神酒を清らかに用意して、みな上帝鬼神をお祭りしているからである。
七(略)
出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社) 最後に、今回の主題と響きあう
私の詩「東北、恋。海と牛と少女に」をこだまさせます。
(作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)
戦争がもたらす悪があるように、原発がもたらす悪はあります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。
次回からは、『墨子』の世界の核心、「兼愛」そして「非攻」をみつめていきます。
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