中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、
墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。
今回の主題は、
兼愛です。
「兼愛」についての言葉は、墨子を諸子百家のなかで一際高く聳え立つ人間として輝かせていると私は思います。まずこの言葉が意味するものについての、
出典の訳者・金谷治の、注記を引用します。
● 引用 *<愛> 墨子のいう愛は、今日の語感からくるような精神的なものではない。利害と結びついて説かれているように、相手を尊重して、その利益をはかる行動をともなっている。相手の「ためにはかる」とか、相手の「身になる」とか、相手を「大事にする」などという訳語も考えられる。(●引用おわり)
ここに書かれているように、墨子の「愛」が、精神的なものではないというのは、宗教的ではないと言い換えられます。前回の「天志」でみたように、「天の意思」その善性を、この「兼愛」の裏づけとしていますが、罪と罰、地獄、最後の審判といった死後の世界への強い畏怖はなく、とても現世的です。逆にいうと、この生がすべて、理想郷、永遠の長寿を願う、中国に共通した精神のあり方を感じます。
このような精神風土のうえで、墨子は、よく生きるために、よく生きることは、愛すること(相手の「ためにはかる」、相手の「身になる」、相手を「大事にする」)だといいます。
そして、現世的な墨子の「愛」のもうひとつの大きな特徴は、彼が戦国時代という殺し合いの時代の最中で、この考えをひろめ弟子たちとともに実践したことです。
彼の「兼愛」の言葉は、別の回で見つめる「非攻」、悪である戦争を止めさせる行為と結びついていました。この点でこそ、墨子の言葉、行いは、これからもその輝きと価値をけして失わない、時代と国境など飛び越えて学び取るべきものだと、私は考えています。
「兼愛」の骨子を抜粋し、◎印に続け、短く私の言葉を添えます。
「聖人は世界を平和に治めることを、自分の任務とする者」
◎聖人という言葉を政治家としたとき、この根本を見失っている、知らない政治屋ばかりが、なんと多いんでしょうか。
「もしも世界じゅうの人々をひろく互いに愛しあうようにさせたならば、国と国とは攻めあうことがなく、(略)君臣父子のすべてが慈悲深く恭順になれるのである。そして、このようであれば、世界は平和に治まるのである。」
「世界は、ひろく愛しあえばよく治まるが、互いに憎みあえば乱れるのである。」
◎政治屋は、猜疑心と嫌悪心でいっぱいです。相手の眼に映る自分の憎しみを、相手の憎しみと邪推します。「憎みあえば乱れる」ことを知りません。平和を本気で望んでいない者には、有権者から政治を任される資格はないと、私は思います。愛することをまず第一に心から望むことができない者は、愛情と思いやりのある社会への道を選べないと、私は思います。
●以下は、出典からの原文引用です。■ 第十四 兼愛(けんあい)篇 上一 聖人は世界を平和に治めることを、自分の任務とする者である。世界を平和に治めるには、必ず混乱の起こる原因をわきまえるべきであって、それでこそはじめて混乱を収拾できるのである。(略)
二 そこで、社会的な混乱が何を原因として起こるのかを考察してみると、それは他人を愛さないことから起こっている。君主や父親に対して臣下や子供が無礼(ぶれい)を働くのが、いわゆる混乱である。子はわが身を愛して父を愛さないから、父を犠牲にしてわが利益をはかり、弟はわが身を愛して兄を愛さないから、兄を犠牲にしてわが利益をはかり、臣はわが身を愛して君を愛さないから、君を犠牲にしてわが利益をはかる。これがいわゆる混乱である。ところがまた逆に、父が子に無慈悲であり、兄が弟に無慈悲であり、君が臣に無慈悲であるというのも、やはりひろくいわれている混乱である。父がわが身を愛して子を愛さないから、子を犠牲にしてわが利益をはかり、兄がわが身を愛して弟を愛さないから、弟を犠牲にしてわが利益をはかり、君がわが身を愛して臣を愛さないから、臣を犠牲にしてわが利益をはかる。これはどうしたことか。みな他人を愛さないことから起こっているのである。
ところで、この世の中でどろぼうや障害を働く者があるということについてみても、やはり同じである。どろぼうはわが家を愛して他人の家を愛さないから、他人の家で盗みを働いてわが家の利益をはかり、人を傷害する者はわが体を愛して他人の体を愛さないから、他人のからだに傷害を加えてわが体の利益をはかる。これはどうしたことか。みな他人を愛さないことから起こっているのである。
さて、また大夫(たいふ)たちが互いに相手の家を乱し、諸侯たちが互いに相手の国を攻撃するということについてみても、やはり同じである。大夫はそれぞれわが家を愛して他人の家を愛さないから、他人の家を乱してわが家の利益をはかり、諸侯はそれぞれわが国を愛して他国を愛さないから、他国を攻撃してわが国の利益をはかる。世界の混乱したことがらはすべて以上で尽くされる。これらのことがらが何を原因として起こるのかを考察してみると、それは、他人を愛さないことから起こっているのである。
三 もしも世界じゅうの人々がひろく互いに愛しあい、わが身を愛するのと同じように他人を愛するようにさせたならば、それでもなお無礼者が出るであろうか。わが身に対するのと同じように父兄や君主に対するのだから、無礼な振舞いをどうしてすることがあろう。さらになお無慈悲な人が出るであろうか。わが身に対するのと同じように子弟や臣下に対するのだから、無慈悲な振舞いをどうしてすることがあろう。だから目下の無礼や目上の無慈悲はなくなるのである。
さらになおどろぼうや傷害を働く者が出るであろうか。他人の家をわが家と同じようにみなすのだから、だれが盗みを働こう。他人の体をわが体と同じようにみなすのだから、だれが傷害を加えよう。だからどろぼうや傷害事件もなくなるのである。
さらに大夫たちが互いに相手の家を乱し、諸侯たちが互いに相手の国を攻めるという事態がまだ起こるであろうか。他人の家をわが家と同じようにみなすのだから、だれが相手を乱そう。他国をわが国と同じようにみなすのだから、だれが相手を攻めよう。だから大夫たちが互いに相手の家を乱し、諸侯たちが互いに相手の国を攻めるという事態もなくなるのである。
してみると、もしも世界じゅうの人々をひろく互いに愛しあうようにさせたならば、国と国とは攻めあうことがなく、家と家とは乱しあうことがなく、どろぼうや障害もなくなり、君臣父子のすべてが慈悲深く恭順になれるのである。そして、このようであれば、世界は平和に治まるのである。そこで、聖人は世界を平和に治めることを任務とする者であるから、当然のことながら、人々の憎しみを禁止して愛することを奨励する。こうして世界は、ひろく愛しあえばよく治まるが、互いに憎みあえば乱れるのである。だから、墨子先生が「他人を愛することを奨励しなければならない」といわれたのは、このことなのである。
出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社) 最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。
詩「十四歳。いのち、巣立ち。」から。
「公園で ( 福島の同窓生に )」 (作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)
戦争がもたらす悪があるように、原発がもたらす悪はあります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。
次回も、『墨子』の世界、「兼愛」を感じとります。
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