『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』の
天野恵氏による
「第3章イタリアの詩形」を通して、詩を見つめています。
ペトラルカの美しい抒情詩を聴き取りましたが、今回と次回は、壮大な叙事詩、
ダンテの『神曲』について、その詩形という観点で考えてみます。
典型的な抒情詩人であり私が好きなポオは詩論で、「詩が詩であるのは、魂を高揚して激しく興奮させる限りであり、詩的興奮は束の間のもの。だから長編詩は実際は短詩の連作だ。『失楽園』の半分は本質的には散文だ。」と述べていることを先に記しました(
「ポオの詩論(一)。美の韻律的創造。」)。
ダンテの
『新生』は散文の詞書や日記体の叙述の合間に、美しい愛の抒情詩を挿入しており、ポオの言葉が当てはまります。美しい作品だけれども長編詩としてのかたちは持ちません。
では『神曲』はどうでしょうか?
日本語の翻訳を読む限り、
ミルトンの『失楽園』と同様に半分以上は、情景描写や物語のあらすじの展開や会話で、散文的であり小説の文章との違いは感じ取れません。
出典の引用箇所は、そのような『神曲』を長編の叙事詩として、試作品として成り立たせている、翻訳では分からない、
原文の音楽性を教えてくれます。具体的には、
① 各行を詩句としている
音節数、
音節の強弱による抑揚とリズム。
② 各行に響きあいと3行の
詩連のまとまりをもたらす脚韻。
ただこれは詩歌が必ず宿している音楽性です。これだけで短詩はなりたちますが、長い作品をつくろうとすると、積み上げることは難しく、もろく崩れ、冗漫な繰り返しに終ってしまいます。上手くいってポオの言うように、短詩の連作でしかありません。
ダンテは叙事詩『神曲』で、この詩歌本来の音楽性に加えてさらに、
作品の長さに相応しく詩句を緊密に連鎖させる詩の形を生み出したことを、私は出典に教えられました。
具体的には、
③ 3行
詩連のあいだの脚韻の連鎖。
④ 百数十行ほどでの
終結韻で結ばれた歌(カント)。
その上で彼はこの詩句による緊密な構築物を、数字3へのこだわりが絡まる宗教観、自らの世界観、宇宙観を照らし出すものにまで高めます。
⑤
それぞれ三十三の歌(カント)により織り上げられ3つの世界の絵巻物。
(地獄篇は冒頭に全体の序章である第一歌があるので三十四歌、全体は百歌です)。
⑥
地獄篇、浄罪篇、天堂篇の3つの絵巻物、『神曲』として壮大な詩宇宙の音楽を奏で合っています。
ダンテが、詩の伝統を踏まえながら、個性による創造力で、新しい詩形を模索し見つけだし、独自の詩宇宙を築き上げたことに私は感動します、だから彼と作品を敬愛せずにいられません。
次回は、『神曲』の核に輝くやわらかな抒情をみつめます。
●以下は出典からの引用です。1.連鎖韻とテルツァ・リーマ
(略)オッターヴァ・リーマとは別の重要な叙事詩の詩形をもう一つご紹介しましょう。イタリア語の父とも称される詩聖ダンテ・アリギエーリの代表作『神曲』において用いられた、テルツァ・リーマ terza rima と呼ばれる詩形です。『神曲』冒頭を見ながら、まずはそれがどのような形式であるのか確認しましょう。
Nel mezzo del cammin di nostra v
ita (11)
mi ritovai per una selva osc
ura (11)
che la diritta via era smarr
ita. (11)
私たちの生の歩みの半ばにあって
私は自分が暗い森の中にいることに気づいた。
まっすぐな道は見失われていた。
Ahi quanto a dir qual eracosa d
ura (11)
esta selva selvaggia, e aspra e f
orte (11)
che nel pensier rinoval la p
ura! (11)
ああ、その深い森がどのようであったか
語るのも辛いことだ。険しく、恐ろしい場所で、
思い出すだに恐怖がよみがえってくる。
Tant’ amara che poco pi m
orte; (11)
ma per trattar del ben ch’I vi trovai, (11)
dir dell’altre cose ch’I v’ho sc
orte. (11)
その苦しさは死に勝ることもないほど。
しかし、そこに私が探り当てた幸いについて語るために
その場所で見た他のさまざまな事を告げよう。
(Inf.Ⅰ, 1-9)
*出典の原文にある各音節と強弱の記号は引用省略しています。(11)は各行の音節数です。
ご覧のように、これもオッターヴァ・リーマ同様、11音節詩行による一定音節数作詩法ですが、こちらは3行が一組となっています。この一組を3行詩連 terzina [テルツィーナ]と呼びます。また、それぞれの3行詩連にあってはABAという、一種の交代韻ともとれる単純な形式の脚韻が踏まれていますが、注目すべきは、続く次の3行詩連の最初の行と前の3行詩連の真ん中の行とが押韻によって結ばれている点です。(略)このテルツァ・リーマにあっては、ABA/BCB/CDC/DED/・・・という具合に、ひとつの3行詩連から次の3行詩連へと、ちょうど鎖の輪が順々にがっていくように連続した押韻の仕方を連鎖韻rima incatenate [リ-マ・インカテンータ]と呼びます。
こうした3行詩連の連鎖は、望めばいくらでも長くできるわけですが、実際には『神曲』の場合、百数十行で一区切りとなっており、このひとまとまりが歌canto[カント]と呼ばれます。そして各歌(カント)の末尾は、最後の3行詩連の後にもう1詩行が加えられて結ばれます。つまり・・・/XYX/YZY/Zという形で歌(カント)が締めくくられるわけで、その結果、最後の4行のみを取り出して眺めるならば、あたかも交代韻(YZYZ)を踏んでいるかのように見えることになり、ちょうど歌(カント)の冒頭部分(ABAB)といわば対照形をなすような終わり方であると見ることができます。(略)
テルツァ・リーマの3行詩連はたったの3行ですから、まとまった内容を表現するためのいわば最低限の字数といって差し支えないでしょう。(略)しかしながら、この少ないキャパシティを補って余りあるのが、ひとつの3行詩連から次の3行詩連へと鎖を繋いでいく、あの特徴的な押韻方法、すなわち連鎖韻に他なりません。(略)
テルツァ・リーマの方は、確かにある意味ではより小刻みになるものの、基本的にはもっと息の長い叙述を得意とします。この意味からも、ダンテの発明は実に的を射たものであり、これだけでも彼が天才的な詩人であったことがよく分かります。『神曲』は当時の自然科学から文化・芸術、政治、宗教に至るおよそあらゆる分野の百科全書的知識を総動員しながら、西暦1300年という時点を宇宙の誕生からその終末までの全時間の中に位置づけようとしたと考えることも可能な、実に荘重かつ息の長い作品だからです。
出典:
天野恵「第3章イタリアの詩形」から。『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』(2010年、三修社)
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