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ダンテ『神曲』愛。3による表現技法。

 ダンテの壮大な『神曲』全体に照応している縮図のようなひとつの(カント)、3行3連、9行に凝縮されている抒情の凄みを見つめます。
 出典の『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』の「第3章イタリアの詩形」で、天野恵氏は、地獄篇第5歌が「愛欲の獄」としてひろく知られ、ロダンの彫刻《接吻》、《地獄門》、《考える人》の種となったことを興味深く教えてくれます。(ロダンのこれらの作品の写真はウィキペディアで見る事ができます)。 

 引用された9行は、『神曲』を日本語の翻訳書で読み進めるだけでは、小説の散文を読むように、特に立ち止まることもなく、美しい文章だなと感じるくらいで、行き過ぎてしまいそうです。
 天野氏はここで原文の言葉を見つめつつ、ダンテがこの3行の詩句3連の詩行の9行に、いかに深い抒情、詩想を凝縮しているかを、教えてくれます。
 叙事詩全体に匹敵するような、抒情詩がここに輝いていることから、ダンテはやはり散文作者ではなく天性の抒情詩人であったと感じます。

 「愛される者に愛さぬことを許さぬ愛」
 この詩句に対して展開されるキリスト教的な愛の理論と、フランチェスカの訴え、「愛の本質に忠実であろうとすれば、自分もまたパオロを愛さずにはいられなかった。必然であり、避けることはできなかった」という、言葉に打たれ、地獄を巡り歩くダンテはこのあと気を失い倒れてしまいます。それだけの強さがこもった言葉、生きるということ、愛するということ、死ぬということ、人間にとっての根源的な問いかけを、この短い抒情の詩句は響かせ、ふるえ続けています。
 だからこそ、ロダンの魂は捉えられ強い感動が彼に美しい作品を作らせました。私も強く惹きつけられ、詩想が呼び起こされ胸のうちをよぎります。

 詩想の熱さと同時に強い感動を、抒情の言葉として、詩句、詩連のかたち、抒情詩として、形作るダンテの創造力がいかに優れたものかが、ここには鮮やかに現れています。
 「テルツァ・リーマという詩形を、3という数字をベースに構成された『神曲』全体の中で、三位一体や三段論法などとも有機的に関連付けながら駆使するこうした表現技法」の独自性を、ダンテが模索し見つけ作品化した意思の強靭さ、文学の伝統の深さ、世界文学の豊かさを、私は思わずにはいられません。

 日本文学の伝統にも『源氏物語』という、美しい愛の抒情のかがやきと深い宗教性をたたえつつ、歌をも織り込めた独自の詩想の絵巻物があります。その喜びを思い起こしてしまうのは、私だけでしょうか?

●以下は出典からの引用です。

3.『神曲』のテルツァ・リーマ
 それでは、ダンテがいわばテルツァ・リーマのテルツァ・リーマたるところをどのように使いこなしておるのか、地獄篇第5歌の一節を例にとってお話しすることにしましょう。この歌(カント)は「愛欲の獄」として知られるたいへん有名な部分でして、例えばロダンの《接吻》と題された作品をご存知かと思いますが、あの抱き合う二人の男女はそもそもこの歌(カント)の主人公たちでした。『神曲』にインスピレーションを得て《地獄門》の制作に取り掛かったロダンは、これをその一部にするつもりだったのです。ちなみに、《門》の正面中央の高い所にいる《考える人》がダンテその人に他なりません。(略)
 さて、問題の二人はパオロ・マラテスタとフランチェスカ・ダ・ポレンタと呼ばれた実在の人物でして、彼らの悲劇はダンテの時代のフィレンツェではよく知られた事件だったと考えられています。(略)
 さて、地獄を訪問したダンテは、殺害されたこの二人の霊に出会って、フランチェスカと会話を交わします。(略)ともあれ、まずはフランチェスカが義理の弟パオロ・マラテスタとの不倫に陥った事情をダンテに物語る有名な箇所をごいっしょに見ていくことにしましょう。彼女は自分の不倫をこう言って正当化します。

Amor, ch’al cor gentil ratto s’apprende  (11)
prese costui de la bella persona (11)
che mi fu tolta; e ’lmodo ancor m’offende.(11)
「高貴な心に素早く宿る愛は
私の美しい肉体ゆえに、この人(パオロ)を虜にしました。
その肉体は私(=魂)から奪われてしまい、その有様は今なお私に苦しみを与え続けます。

Amor, ch’a nullo amato amar perdona, (11)
mi prese del costui piacer si forte, (11)
che, come vedi, ancor non m’abbandona. (11)
愛される者に愛さぬことを許さぬ愛
この人の美しさゆえに私を強く捉え、
ご覧のとおり、今もなお私を離そうとしません。

Amor condusse noi ad una morte: (11)
Cina attende chi a vita ci spense》. (11)
Queste parole da lor ci fuor porte. (11)
愛は私たちをひとつの死へと導きました。
私たちの命を絶った者(=夫)はカインの圏が待ち受けています。」

 こうした言葉が私たち(=ダンテとウェルギリウス)にもたらされた。

(Inf.Ⅴ, 100-108)
*出典の原文にある各音節と強弱の記号は引用省略しています。(11)は各行の音節数です。
 
 あえて少し長めに引用したのには理由があります。3つの3行詩連がいずれも Amor という言葉で始っていますね。これにより3行詩連が3つ束ねられて一組になっているのです。これは、それぞれが33の歌(カント)からなる3つの篇で成り立っている『神曲』の、いわば縮図のような構造であると言えます。こうなるともはやダンテの3という数へのこだわりに象徴的な意味が込められていることは明らかでしょう。2番目の3行詩連の冒頭、第103行では、行頭の Amor に加えて動詞 amare が不定詞と過去分詞の形で2度登場し、「愛」に関わる語彙が都合3度現れますが、これが三位一体である神の「愛」にことよせた表現であることはあまりにも明白です。そして、続く3番目の3行詩連の、これまた冒頭、第106行に una morte すなわち「ただひとつの死」という表現があるのも、これに呼応したものでしょう。ここで使われたuna は不定冠詞ではありません。「唯一の」という意味を担っています。ですから、この詩行の第8音節は強音節として発音する必要があります。
 さてこの部分でフランチェスカは一体どのような主張を展開しているのでしょうか。まず、最初の3行詩連において彼女は、愛とは高貴な心にひとりでに宿るものであるという前提のもとに話し始めます。これは、(略)当時の抒情詩的伝統を踏まえた理論なのですが、ともあれ、彼女によると愛とはそういうものであり、従って、高貴な心の持ち主であったパオロが私の美しい姿に接して愛を抱いたのは、いわば必然であって避けることのできない現象であったと、こう言っているのです。そして第102行で言われている「私」というのは、フランチェスカの魂(だけ)が自分のことをそう呼んでいる点に注意してください。人間というのは、魂と肉体のふたつから成り立っています。今、ダンテと会話を交わしているのは、フランチェスカその人ではなく、彼女の魂だけなのです。そこで、その魂が、かつては一体となっていた肉体が、自分(=魂)から奪い取られてしまった、つまり、殺害された、と言っているわけです。そして、その殺害の方法が今なお自分を苦しめる、というのは、最後の告解によって自分の罪を明らかにする機会を与えられることなく殺害されてしまったことを意味しているものと考えられます。
 続く二つ目の3行詩連では、愛された者は愛し返さなくてはならない、とこれまた現代人の普通の感覚では受け入れがたい理屈を、あたかも当然のごとく彼女は主張します。ですが、ここでは先ほど注目した三位一体を象徴する愛の表現方法を思い出してください。キリスト教徒にとって、そもそも「愛」というのは人間のものではありません。それは神のもの、それどころか、神そのものであるわけです。神は人間を愛してくださっている。従って、我々もまた神を愛さなくてはならない、というのがキリスト教的な愛の理論です。つまり、フランチェスカは愛というものの持つそうした本質に忠実であろうとすれば、自分もまたパオロを愛さずにはいられなかった。これもまた必然であり、避けることはできなかったと言っているのです。
 ヨーロッパの抒情詩的伝統というのは、もともと社会的地位の高い人妻を相手とする恋愛をテーマとしています。ですから、根本的に宗教上・倫理上の問題を含んでいるわけで、作品に肯定的な意味づけを行なおうとすれば、常に大きな困難がつきまといます。若い頃のダンテも属していた《清新体派》という詩派の詩人たちは、理論的にこうした問題を解決しようとして、相手の女性を天使になぞらえる方法を編み出しました。(略)『神曲』のこの部分を読む限り、どうも『神曲』を書いた頃のダンテは《清新体派》のそうした解決方法には納得していなかったようです。
 実際第106行に始まる三つ目の3行詩連において、フランチェスカも認めているとおり、彼らの愛は二人を地獄落ちへと導く結果になります。「ただひとつの死」とは表面的には自分とパオロの二人が同時に殺害されたことを言う表現ですが、そこには《肉体の死》と《魂の死》という二つの死が同時に訪れたことを表す意味が含まれています。《魂の死》とは、地獄に落ちることを比喩的に示す表現です。キリスト教にあっては、肉体が死んでも霊魂は死ぬことがありません。それが「死ぬ」というのは、地獄に落とされて二度とそこから出ることができない状態を意味しているのです。ただ、ここに至ってもなお、フランチェスカは自分たちの愛が《清新体派》の理論に代表されるような「正しい」ものであったと主張することをあきらめません。彼女によると、二人を不当にも殺害したジャンチョット・マラテスタは、彼らよりもずっと罪深い人々の落ちていく《カインの圏》に落とされるだろうというのです。ここは旧約聖書のカインとアベルの物語からその名が採られている「近親者に対する裏切り」を働いた罪人の行く所です。
 それはともかくとして、テルツァ・リーマという詩形を、3という数字をベースに構成された『神曲』全体の中で、三位一体や三段論法などとも有機的に関連付けながら駆使するこうした表現技法は、ここだけではなく、『神曲』の随所に見られるものであって、ダンテがこの詩形を発明したのみならず、これに合わせた詩作方法をも逸早く開発し、それに習熟していたことを物語っています。

出典:天野恵「第3章イタリアの詩形」から。『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』(2010年、三修社)


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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