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マラルメの詩論(二)美しい姿がおぼろげに。

 フランスの詩人・ステファヌ・マラルメの詩論を前回に続けてみつめます。(3番目の主題からになります。)

3.花の観念

 純粋な著作の中では語り手としての詩人は消え失せて、語に主導権を渡さなければならない。語は、一つ一つちがっているためにその間に衝突を生じ、語と語はたがいの反映によって輝き出す。それが従来の抒情的息吹き、個人の息づかいや、文章をひきずる作者の熱意などにとってかわる。
 文芸の魔法とは、物のもつ音楽性としか関係のない人間の精神を、現実というひとにぎりの埃から解放すること。
 文学では、現実は暗示の対象とさえなればよく、観念という形で実体化される。
 自然界の事象は、人がそれを語り言葉の演奏が進むにつれて大気の振動現象に置きかえられすぐに消滅してしまう。そこから純粋な観念が、卑近な、具体的な記憶に悩まされずに現われる。
 私が「花」と言う時、私の声は、すぐに忘れられてしまう。が、同時に、われわれの知っている花とはちがった、現実のどんな花束にもない、におやかな、花の観念そのものが、言葉のもつ音楽の働きによって立ちのぼる。
 「詩人」のもとでは、言語は何よりもまず人間の心の底からほとばしり出る夢と歌であり、虚構の世界を作るための芸術に材料として使われる必要上、その虚像性をとりもどす。
 詩句とは幾つかの単語から作った呪文のような、国語の中にそれまで存在しなかった新しい一つの語である。ふだん使いなれた言い廻しの一部を聞きながら、まるではじめて聞くような印象をうけ、詩句の中で名を言われた対象は、記憶のかたすみで新しい雰囲気にひたってゆく。

☆ 私の木霊
 私が「花」という時、・・・・という文章には、詩の秘密をそっと差し出している美しさがあります。
 「現実のどんな花束にもない、におやかな、花の観念そのものが、言葉のもつ音楽の働きによって立ちのぼる。」
 マラルメたちがフランス象徴詩派と呼ばれるにふさわしいことを感じる言葉です。彼の象徴詩は、新古今和歌集、特に藤原定家の歌からたちのぼる音象と似通い響きあっていることを以前ブログに書きました(藤原定家の象徴詩)。
 語り手が消え、語に主導権がある。この考え方は、詩は、意識的に細部まで構築するもの、というポオの詩論を突き進めた考えです。
 マラルメと定家は極めて美しい詩を創作していると同時に、知的に複雑に組み上げようと凝りすぎた意図があらわで美しくない駄作もたくさん作っていることでも似通っています。私はそれらの無感動な頭でっかちな作品は好きではありませんが、彼らの音楽的な詩は好きです。
 そして生涯を通して詩を極めようとした芸術家である二人を深く敬愛しています。

4.この世にないもの、美しい何かの姿がおぼろげに

 「この世にないもの」を求める気持が、生涯かけた作品――無にすぎないかも知れない――の生まれる動機であり、原動力。彼岸の世界に輝いているものが、われわれのところには欠けているという意識を、逆に一種のトリックで、地上からあの禁断の、雷鳴の轟く高所へと打ち上げるという仕事を尊敬する。それは一つの遊びにはなる。
 地上の事物を見て倦怠を感じるその時この遊びが、ちょうど空の高みにある真空の力でひっぱり出されたかのように生まれ、真空は事物を地上からひき離して自分の空虚な空間をそれで満たし、われわれが意志の命ずるままにひとりで祝う祭のためにその輝かしい光景を差し出す。私が書くという行為に要求するのはこの仕事。
 地上に存在せず、人間の眼から隠れているものについて考えることは創造と同じ。
 われわれの精神に何気なしに触れてくる物の像や数を比較する時、像と像との交差する点には、装飾のように、美しい何かの姿がおぼろげにあらわれ、心をそわそわさせるような協和音が聞こえてくる。われわれの肉体の繊維が織りなすさまざまな論理の主題を、眼に見える旋律としていわば音階であらわしたものとも言える。この宇宙の、あらゆる点から他の点へとひかれた観念の「線」は神秘的に、純粋な「調和」が存在している。
 日常使う適切な語の助けを借りて、人間の口という楽器を弾く時、「永遠」がもつ律動がわれわれのものとなる。

☆ 私の木霊
 マラルメが生涯かけた作品の生まれる動機を語るこの文章に私は共感を覚えます。その作品は「無」にすぎないかもしれない、詩を書くことは「一つの遊び」に過ぎないかもしれないと自己凝視をしながら、彼は生涯を詩にかけています。
 「この世にないもの」を求める気持」、「創造」、「美しい何かの姿がおぼろげにあらわれる」、「永遠がもつ律動」。これらの詩の本質をさししめす言葉はポオの詩論と深く通い合っていて、私の詩心も共鳴します。(ポオの詩論(二)と『ユリイカ』。星を求める蛾の願い

5.一冊の「書物」

 何物も、言葉として発せられなくては、あとにのこらない。この地上にいる目的は、交響楽を「書物」の中に移し変える技術、われわれ詩人の財産を奪いかえす技術を完成するためだ。
 詩の書物のもつ秩序は書かれる前からきまっていて、偶然を排除する。作者を省略するためには、そうした秩序が必要。どの主題も、あらかじめ、書物の中のどの場所にはめこまれるかがきまっている。それは、ロマン派式の、崇高なものをでたらめに置いてゆくやり方でも、主題を一山ずつむりに押し込むやり方でもない。
 断片が、交互に並んだり向き合ったりしている中から、全体として一つの律動が生まれる。
 精神の空間に、この均斉、詩篇の中での詩句の位置と、書物の中での詩篇の位置との双方に関して見られる均斉が飛び出す。
 世の中には元来、ただ一冊の「書物」だけしか実在せず、作品と作品との間の違いは、正しい本文を指し示すために、文明時代、文字の時代の長い間にわたって提出された版本の違いのようなものである。

☆ 私の木霊
 小説家の埴谷雄高(はにやゆたか)のエッセイで私はマラルメの、ただ一冊の「書物」、という想念を知りました。埴谷雄高もほとんどただ一冊の未完の小説『死霊』に作家生活のすべてを注ぎましたが、私にも一冊の「詩集」という夢想が、試行錯誤していた二十代からあります。宇宙のなかのただ一冊の「書物」を奏でる文学者の一人となる夢を今も変わらずに抱きながら、私は創作しています。

●以下は、引用した出典の原文です。(引用は二つの詩論「詩の危機」と「音楽と文芸」から同じ主題を自由に要約しています。今回は、「音楽と文芸」の出典原文を掲載します。)

「音楽と文芸」から。

 「散文と詩句との二つが分離するべき時期、それが現在われわれのいる時代なのであります。
 ふり返ってみますと、この二つの要素は、今世紀はじめにロマン派の強力な聴力によって、その波打って進んでゆく十二音綴詩句(アレクサンドラン)、規則正しい区切りと、詩句の跨がりを特徴とする十二音綴詩句(アレクサンドラン)の中で、結びつけられてしまったのですが、今、その溶け合っているものが、分解してそれぞれに独立するのであります。この目的のために、昨日まで、いろいろな試みがおこなわれてきましたが、「自由詩」が発見されてやっと最終的な解決が得られたのであります。
 「自由詩」とは何か。(略)詩人の一人一人が、自分に合った調子を見つけ、そこへ転調してうたう、ということであると申せましょう。そのための前提としては、人間の魂は、すべて、律動の糸のかたまりである、という事実があります。」
 「「何か別なもの」・・・・・・いったい、書物のページがふるえるのは、何か別のものを求めて、待ちかねているからだとは思えないでしょうか。(略)
 創作行為あるいは文芸の仕組み自体を人前にさらけ出すことになりますが、この「この世にないもの」を求める気持が、生涯かけた作品――といっても、畢竟(ひっきょう)、無にすぎないかも知れませんが――の生まれる動機であり、原動力であるからなのです。
 そして私は、彼岸の世界に輝いているものが、われわれのところには欠けているという意識を、逆に、一種のトリックで、地上からあの禁断の、雷鳴の轟く高所へと打ち上げるという仕事を尊敬する者であります。
 それは何の役に立つでしょうか。
 一つの遊びにはなります。
 地上の事物が根をはやして、がっしりと立っているのを見ると、われわれは倦怠を感じますが、その時、この遊びが、ちょうど空の高みにある真空の力でひっぱり出されたかのように、生まれます。その真空は、事物を地上からひき離して、自分の空虚な空間をそれで満たし、われわれが意志の命ずるままにひとりで祝う祭のために、その輝かしい光景を差し出します。
 私が、書くという行為に要求するのは、まさにこの仕事であり、私の要求が正当であるのをこれから証明いたしましょう。」
 「いつの時代でも、人間にできることといえば、ただ、自然の中に存在し、時によってまれなあるいは数多く増える、事物相互の関係を捉えることだけです。そして、自分の魂の状態に合わせて――その魂を思うままに拡大し――世界を単純化することだけです。
 地上に存在せず、したがって人間の眼から隠れているものについて考えること、これは創造と同じであります。
 そのための実際の方法としては、われわれの精神に何気なしに触れてくる物の像や数を比較するというだけで充分であります。その時、像と像との交差する点には、装飾のように、美しい何かの姿がおぼろげにあらわれることでしょう。それらの姿をからみ合わせた全体の唐草模様を見る時、人は眼の眩むような恐怖の念にとらえられます。また、心をそわそわさせるような協和音が聞こえてきます。(略)」
 「何物かの告知が感じ取られるのであります。それはわれわれの肉体の繊維が織りなすさまざまな論理の主題を、眼に見える旋律として、いわば音階であらわしたものとも言えるでしょう。「夢想」の怪物が、傷口から流す金色の血でその種族の存在を証明する際、どんな断末魔の狂い方をしようとも、この宇宙の、あらゆる点から他の点へとひかれた観念の「線」は、けっしてまげられたり、みだされたりはしません。ただ、人間の顔の内側でだけ、その「線」は神秘的になりますが、純粋な「調和」は、そこにも存在しているのであります。」

出典: 「詩の危機」「音楽と文芸」南條彰宏訳『筑摩世界文学大系〈48〉マラルメ ヴェルレーヌ ランボオ 』(1974年、筑摩書房)

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コメント

[C13] 見えない世界を語るため

私もこの世だけでなく、高次元、異次元、あの世の霊的な世界を感じて、その無限と永遠をつづることができたらと願いながら詩を書いています。
深くマラルメの詩論に共感しました。
すばらしい知恵をありがとうございます。

[C23] Re: 見えない世界を語るため

木の若芽様
お言葉とても嬉しく思います。ありがとうございます。
励みに私も努力します。
良い作品が生まれ、伝わりますように。
  • 2011-11-28 20:20
  • 高畑耕治
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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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