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芸と芸術と生活の糧と

 私は歌、歌謡もふくめた歌が好きです。今回は芸と芸術と生活の糧について思うままに記します。

 歌謡、芸謡曲のいちばんの良さは、楽しさ。悲しんで感情移入した後にも元気になれること、だと思います。
 旋律と声が重なり美しく響く、情感のこもった人を思い愛して喜び哀しむ歌が、私はいちばん好きです。心の感性、変えられない顔だちなのかもしれません。私は知の人ではなく情の人だと思います。

 歌謡、芸謡曲の歌詞のわかりやすさは、悪くいえば俗なのかもしれないけれど、芸に徹していて、驕りがなくて、伝えたいという思いの強さが響いてきて、聴いている瞬間には共感、感動でき、今の文字だけの詩よりゆたかだと感じて素直に好きだと思えます。

 私は大阪の生まれだからか、芸と芸人が好きです。
 大道芸を見つけると嬉しく、楽しんで拍手しています。時おり失敗しつつ子供たちの笑顔を自然に咲かせてくれる工夫と練習と情熱は生き生きとしています。
 私は歌手にはなれなかった、大道芸にも向いてない、私にいちばんあった詩歌にひたすら生きるけれど、芸にかける仲間だといつも感じながら、好きな歌をふと口ずさみ、大道芸の情熱に拍手し、負けずに言葉で表現しようと思っています。
 古代からの敬愛する歌人たちと同じほどに、芸謡を生活の糧として生き抜いた多くは無名の歌い手たちが、私は好きです。

 同時に、矛盾するようですが、芸人であったうえで、ほんものの芸術家であるという意味でのプロでありたいと絶えず思います。
 詩歌は芸でありながら芸術だから、詩歌そのものの価値と、生活の糧をそれで得ているかとは直結しない別のことです。詩歌の場合とくに、心に響き続けるいい歌であることと、それが生活の糧となるかどうかはまったくつながっていません。

 生活の糧にほとんどならないことは、啄木の短歌のようにつらいことですが、詩歌が生れ出てくるよりどころの価値観は、食べること・生活の糧ではない、(食べるために、書かずにはいられない、のではない)ということを、あたりまえのことだと確かめるような気持ちで私はいます。
(マスコミも出版活動も、生活の糧の手段である商業活動だから、受けそうな売れそうな物を取り上げるのは自然な営みなのだと思いますが、いい作品の評価者ではまったくないのに、そのような顔をするのは、商売人の顔を隠した編集者の驕りに過ぎないと思います。)

 私の尊敬する、古代歌謡の民謡の歌い手たち、万葉からの作者未詳歌(読人知らず)の歌い手たち、柿本人麻呂も山上憶良も、紫式部や和泉式部や式子内親王も、歌がヒットしてそれで生活できたわけではありません。

 だから今の詩人についても、マスコミ活動で生活しているかどうかと、いい詩歌を生んでいるかどうかは、関係ないことだと、私は思います。芸人として、生活の糧のためにマスコミに売り込むことや賞の獲得活動は、不可欠な活動だとしても、詩歌の良さ、価値とはまったく別のことです。
 目立つかどうか、マスコミ受けするかどうか、生活を楽にしてくれるかどうかは、今生活するうえでは役立っても、詩歌そのものを見つめた評価とはほとんど関係なく、そのようなパフォーマンスの上塗りはほんの少しの時のうちに洗い流され忘れられ消えます。

 だから毎日の生活では見えにくいけれども、日々の連なりである時の流れ(それはその流れに生きるひとりひとりの利害関係のない人としての心です)こそが、生活のためのしがらみのない、厳しく偏りのない、芸術、詩歌のほんとうの評価者だと私は思います。

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年同
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年同
「愛(かな)」1993年同
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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