中世の歌謡、
今様の花園
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を感じとろうとしています。
この歌謡集はおおきく、中世の民衆の心の咲き匂う園である
「四句神歌(しくのかみうた)の雑(ぞう)」と、中世信仰の園である
「法文歌(ほうもんのうた)」にわかれています。どちらも心の豊かな深みからの歌声の魅力を、異なった表情で湛えています。まず今回は、「四句神歌(しくのかみうた)の雑(ぞう)」を聴きとります。
「四句神歌・雑」の歌謡のいちばんの魅力は、出典に記されているように、「
種々の生業を営む民衆の姿が活写されている」こと、彼らが心から共感した思いが歌われていることです。時を越えて、ふしは失われたけれども、私にも肉声が聞こえてきて、その情感に心が揺り動かされます。
男女の愛情の歌も、和歌では言葉にしないところまで、声に出し歌ってしまう、
飾らない表現が私は好きです。 俗にどっぷり溺れすぎると、表現はいやらしさになるけれど、その境界の微妙さは今も変わらないと思います。だれもが心にある聖と俗に揺れているからだと思います。どちらかだけを美化して、他方を否定するのは、心を貧しくすることだと私は思います。
私が好きな、とても個性的な六つの歌謡を、出典の本文鑑賞から抜き出しました。どれも必ずとりあげられる 有名な歌ですが、やはりそれだけの魅力を感じます。
歌に私が想うことを、☆印の後に添えました。
我を頼めて来ぬ男 角(つの)三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎(うと)まれよ 霜雪霰(しもゆきあられ)降る水田の鳥となれ さて足冷たいかれ 池の浮草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け (雑・三三九)
(訳: わたしを頼みに思わせておきながら、一向に通ってこない男、あの憎い人よ。角が三本も生えた醜い鬼になるがよい。そうして人にいやがられるのさ。霜や雪や霰のふる冷たい水田に立つ鳥となるがよい。そうして冷たいままで立っているんだよ。(いいえ、いっそのこと)池の浮草となってしまえ。あちらにゆられ、こちらにゆられ、定めなくゆられてまわるんだよ。)
☆
女ごころの悲しさが強い詰問の口調の裏から滲みだし聞こえてきます。
美女うち見れば 一本葛(ひともとかづら)にもなりなばやとぞ思ふ 本(もと)より末(すゑ)まで縒(よ)らればや 斬るとも刻むとも 離れがたきはわが宿世(すくせ) (雑・三四二)
(訳: 美しいひとをみると、一本のつたかずらにも転身したいものと思うことだ。そうなったら本から先まですっかりより合わせられたいものだ。たとえかずらになったわが身は斬られるとも刻まれるとも、離れがたいのはふかい宿命というものだ。)
☆
男の性(さが)、業が露な言葉だけれど、嘘でない願望の歌だから、私は好きです。
鵜飼(うかひ)は 悔しかる 何しに急いで漁(あさ)りけむ 万劫年経る亀殺しけむ 現世はかくてもありぬべし 後 世(ごせ)わが身をいかにせんずらむ (雑・三五五)
(訳: 鵜飼は気の毒なことだ。万劫の年を経るといわれているおめでたい亀を、むざんにも殺して鵜の餌とし、ま た鵜の首に綱をゆけて鮎(あゆ)を取らせては吐き出させる。こういう殺生戒を犯していては、この世ではこのままでも何とか過ごすことができようが、来世のわが身はどのようにあるであろうか。地獄に堕ちて、いろいろの責め苦を受けることは目に見えているよ。)
☆罪業を見つめた、思いに揺れのこり続ける、深い歌、生きることを見つめずにいられなくする歌、心に残ります 。中世の信仰の歌を次回考えますが、世俗に生きざるを得ない
生業を抱えたひとの心にまで仏教が深く入り込んでいたことをしみじみと考えさせられます。
遊びをせんとや生(う)まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生(む)まれけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ 揺るがるれ (雑・三五九)
(訳: 遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのであろうかしら、戯れをしようとしてこの世に生まれてきたので あろうかしら。屋外で無心に子供たちが遊んでいるが、その声をこうして聞いていると、何だか自分の体まで自然 にむずむずとして躍動してくるように思われるよ。)
☆とても
素直に心に沁みてきて、ほんとうにそうだ、そう想い、口ずさんでしまう、とてもいい歌です。
わが子は十余(じふよ)になりぬらん 巫(かうなぎ)してこそ歩(あり)くなれ 田子(たご)浦(うら)に潮(しほ)踏むと いかに海人(あまびと)集(つど)ふらん 正(まさ)しとて問ひみ問はずみなぶるらん いとほしや (雑・三六 四)
(訳: わたしの娘はもう十余歳になって、女らしくなったことでしょう。噂では歩き巫女(みこ)とかいうものになって諸国を経めぐっているということです。音に名高い駿河の田子の浦あたりでさすらっているとかです。どんなに漁師たちが多くあつまってくることでしょう。娘のいうことをこれはほんとうにあたっているよなどといいながら、なんだかんだと難癖をつけて、なぶりものにしていることでしょう。思えばかわいそうなあの子よ。)
☆子をもつ
親ごころ、その情愛の深さに、さいごの、いとほしや、の響きに心が打たれます。
舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬(むま)の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせ てん まことに美しく舞うたらば 華(はな)の園(その)まで遊ばせん (雑・四〇八)
(訳: 舞え舞え、ででむしちゃん。おまえが舞わないそのときは、めんこい仔馬やベコの子に、蹴させちゃう、踏み わらせちゃう。だけどほんとに上手に舞ったなら、花壇のほとりで遊ばせよう。)
☆
子どもごころ、やわらかな幼いざんこくさも、そのままに、リズムもひびきも子どもごころの弾むまりのような歌です。
次回は、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』のもうひとつの広大な園である中世信仰の歌、法文歌を聴きとります。
●以下は、出典の引用です。(四句神歌・二句神歌)
法文歌に続いて『秘抄』巻第二の後半部の大半を形成するものが、四句神歌・二句神歌であり、これは形式面 でも自由であり、おもしろいともいえる。内容に至っては神歌の名のとおりの神祇関係のものも相当あるが、一般世俗の流行歌謡が多数を占めていて、『秘抄』の最も興味深い所となっている。(略)
世俗の歌謡はとりどりにおもしろいが、とりわけ種々の生業を営む民衆の姿が活写されていることが目をひく。(略)それは、宮廷貴族や、受領と呼ばれる地方官や、豪族の武士たちではなくて、おおむね低い階層に属する人々なのである。たとえば、出てくる順に拾ってみると、
鵜飼・鷹飼・厨(くりや)雑士(ぞうし)・早船舟子(ふなこ)。巫 (こうなぎ)。海人(あま)。博党(ばくとう)・刈鎌造り・農夫・土器造り・遊女・樵夫(きこり)・兵士・禰宜(ねぎ)・祝( ほうり)・聖(ひじり)・山伏・経読など。男女を問わず、また俗人と宗教者を問わず、種々なものがある。そしてさらに興味をひくのは、鋳物師や農夫に「清太」があったり、巫に「藤太みこ」が出てきたり、実在したらしい人物がある ことである。(略)
今のようなマスコミのない時代に、今様は、一種の社会人共通の感情のはけ場所であったろうし、それゆえにこ そこれほど多くの職業者が歌いこまれたものと考えたい。(略)
『秘抄』の歌謡には、他の時代の歌謡と同じようにやはり恋愛が多く歌われ、男女の愛情の種々の相がとり上げられているが、それらはすべて何か率直な表現であり、恋の手管(てくだ)とか飾られた技巧ではなく、表現に折々露骨なものがあっても、官能の退廃、末梢的な耽美の傾向は少しも見られない。(略)
出典:新間進一「梁塵秘抄 総説、本文鑑賞」。『鑑賞日本古典文学 歌謡Ⅱ』(1977年、角川書店)所収。(*出典からの引用文には、漢字や送り仮名などの表記を一部読みやすいように変えています。)
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