歌謡と詩歌の交わりの視点から
古代歌謡を見つめなおしています。今回と次回は古代の
物語歌をとりあげます。
今回の物語は古代の同母兄妹の悲恋物語です。
☆作品(原文と訳文)天皇崩(かむあが)りまして後、木梨軽太子(きなしのかるのみこのみこと)、日継(ひつぎ)知ろしめすに定まれるを、
未だ位に即位(つ)きたまはずありし間(ほど)に、その同母妹(いろも)軽大郎女(かるのおほいらつめ)にたはけて、
歌日たまひしく、
あしひきの 山田を作(つく)り
山高(やまだか)み 下樋(したび)を走(わし)せ、
下訪(したど)ひに 我が訪ふ妹を
下泣きに 我が泣く妻を
今夜(こぞ)こそは 安く肌触れ。
<訳:
あしひきの)山田を作り、山が高いので水を引くために地下水道を走らせる。
そのようにひそかにわが想う妹、こっそり泣いてわが慕う妻を、今夜こそ心安らかに
肌触れたことよ。>
此は志良宜(しらげ)歌なり。
また歌ひたまひしく
笹葉(ささば)に 打つや霰(あられ)の
たしだしに 率寝(ゐね)てむ後(のち)は 人は離(か)ゆとも。
<訳:
笹の葉に強く降る霰の音がタシダシと聞こえる。(その音ではないが)確かに共寝をすることができたなら、
その人が後で離れて行こうとも(私はかまわない)。>
愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば、
刈菰(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば。
<訳:
いとしいままに寝ることさえ寝たら、刈菰の葉が乱れるように、二人の仲がばらばらになってもかまわない。
寝ることさえできたら。>
此は夷振(ひなぶり)の上歌(あげうた)なり。
[軽大郎女]
かれ後にまた恋慕(おも)ひかねて、追い往(いでまし)し時に、歌ひたまひしく、
君が行き 日長(けなが)くなりぬ。
山たづの 迎へを行かむ。 待つには待たじ。
<訳:
あなたのおでましは、随分長い日数になりました。私は(やまたづの)迎えに行きましょう。
じっと待っているなぞ、もういやでございます。
いつの時代にも男女の恋愛の感情は強く、心に響く
抒情詩を生みます。この物語歌については、悲恋があった後に物語がつくられ、別に謡われていた歌謡のうちからこの物語にふさわしいものが選びとられた可能性もあります。
そのように独立した別々の歌謡だったとしても、言葉に込められた感情、恋の思いの強さが、古代の人々の心をうち、今わたしの心をうつことに変わりはありません。愛することに理由づけなどなく、理性で考えることでもなく、どうしようもなくただそうなのだという、ふたりの愛(かな)しみが、響いている姿はいのちのはだかの、ありのままのふるえ、美しい抒情詩だと、わたしは感じてしまいます。
この物語歌がどのように謡われたかについて、出典著者の
土橋寛は、歌の後に記されている「此は志良宜(しらげ)歌なり」(略)の歌謡名の注が、
宮廷の楽府(または雅楽寮)で一定の歌い方で歌われたことを示していると教えてくれます。
ただし、
「志良宜(しらげ)歌」の解釈について著者は「尻上げ歌」と曲調の変化の意味だと注釈していて、そのように解釈する学者も多いようですが、異論もあります。
金達寿は、
「志良宜歌」をめぐって(『鑑賞日本古典文学第4巻 歌謡Ⅰ』(角川書店、1975年)所収)で、次のように異論を述べています。
「志良宜歌とはいったいなにか。(略)
土田杏村(きょうそん)全集第十三巻「上代歌謡」によると、志良宜歌とは「尻上げ歌」などというものではなく、
古代朝鮮の「新羅歌(しらぎうた)」であったとしている。」
私は学者でなく学識もありませんが、古代からの交流関係があり日本への移住者もいて、日本が文学を中国や朝鮮半島から学びとっていたことを考えると、「新羅歌(しらぎうた)」だと、耳には自然に聞こえる気がします。
古代の中国や朝鮮半島の歌謡との影響関係や共通性については、今後学び知りたいと私は考えています。
●以下、出典からの引用です。 この物語は
同母兄妹の悲恋物語である。(略)
『書記』には、
[太子]容姿(かほ)佳麗(うるは)しくして、見る者自らに感(め)でき。同母妹軽大娘皇女、亦艶妙(かほよ)し。太子、恒(つね)に大娘皇女と合(みあはし)せむと念ぜども、罪有らむことを畏りて、黙(もだ)せり。然るに感(め)でたまふ情(みこころ)、既に盛(さかり)にして、殆(ほとほと)に死(みう)するに至りまさむとす。爰(ここ)に以為(おもほ)さく、「徒に空しく死なむよりは、罪有りと雖も、何(いか)でえ忍ばめや」とおもほす。遂にみそかに通(あ)ひまして、乃(の)ち悒(いきとほる)懐(おもひ)少しく息みぬ。
と記している。
罪を恐れておさえていた恋慕の情が、次第に燃え盛るのをどうすることもできず、どうせ死ぬのなら想いを遂げて死のうと、タブーを破る決意をした経緯が簡潔に述べられている(略)。
軽太子は軽大郎女との禁じられた恋を犯したことによって、宮廷の官人をはじめ天下の人民に背かれ、ついに捕らえられて伊予の湯(道後温泉)に流された。この歌は軽大郎女が太子の後を追うて伊予に行く時の歌であるが、そののち二人は伊予で共に自殺したと
『古事記』には伝えている。
歌の後に記されている「此は志良宜(しらげ)歌なり」「此は夷振(ひなぶり)の上歌(あげうた)なり」の歌謡名の注は、
これらの歌が宮廷の楽府(または雅楽寮)で歌われたことを示すもので、独立歌謡のみならず、
物語歌も、一定の歌い方で歌われたことが知られる。
出典:
「記紀歌謡」土橋寛『鑑賞日本古典文学第4巻 歌謡Ⅰ』(角川書店、1975年)(* 漢字やふりがな等の表記は読みやすいよう変えた箇所があります。)
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