海と時を越えて詩歌の旅をしています。久しぶりに日本に戻ります。
古代からの歌謡と詩歌の豊かな交わりをみつめてきましたが、今回は古くから現在まで歌い継がれている歌謡、民謡をとりあげます。
私の母の郷里は島根県の石見地方ですので、幼少期の夏休みに訪ねた一面の田んぼがひろがり、かえるが夜通し合唱する美しくのどかな心やすらぐ風景が、祖母のほほ笑みにつつまれ心に焼きついています。
ですから、出典の
「囃(はや)し田」、「花田植え」についての描写を読むと、なつかしく景色が浮かびあがります。
日本の原風景といえる黄金色の稲の豊かな稔りが風になびく姿は、中国地方の方に限らず各地でわかちあえるものです。東北地方を旅した時も、車窓に流れ続ける黄金色がなつかしく、私の心を温めてくれました。多くの方の心象風景だと思います。
代表的な
田植歌謡の 『田植草紙』について、出典の著者の
内田るり子氏は、「稲作農耕文化をもつ日本の重要な音楽」であり、「日本の民族音楽として労働歌謡と神事歌謡との両側面をもち、特に構成的に充実した中世風な美しい歌謡」だと要約し伝えてくれます。
私は著者の次の言葉をとても自然に受け容れている自分に気づきます。私は農業民族の末裔だと自覚していますから。
「
稲作農耕文化をもつ日本では田植歌は最も重要な
労働民謡であり、生活の中から出た日本人の心情が見事に歌いあげられていて、音楽的にみても他の民謡に比し古風が残り格調も高い。」
出典に描写されている、「花田植」の、サンバイサン(田植のリーダー)と早乙女の歌の掛け合いと唱和、楽団の笛や太鼓の囃しの姿は、とても色鮮やかに感じます。歌声が田にわたる早春の風にのって聞こえてくる気がします。
「リーダーは一日の労働の采配権をもち、音楽は、豊穣(ほうじょう)の祈願と労働能率の促進という二つの機能(役割)をもっている。」、この言葉に私は次のことを思いめぐらします。
農業は過酷な肉体労働だから、ともに歌うことで、作業の辛さをやわらげ、続けることを促しあう役割を果たしてきたことも、忘れてはならないと思います。
同時に、稲作を初めとする農業で日々の糧を得てきた民族である以上、収穫の良し悪しはその年の気候の変動に大きく左右され、飢饉の年月、生死の境界線を何度も乗り越えてきました。だからそこから、「稲作の豊穣を祈願する神事的な民俗芸能」である「田植神事」が
「神事歌謡」として芽生え、形作られ、受け継がれてきたことも、とても自然なことだと私は感じます。
狩猟民族であったアイヌの人々が彼らの生きざまに密着したアイヌ神歌を謡うことで、美しい民族の魂、いのちの祈りを受け継いできたように。
次に、『田植草紙』の歌謡としての特徴は、「歌詞の上では非常にバラエティに富んでいるが旋律においてはその種類は多くなく(略)同一旋律を異なる歌詞で歌う場合が圧倒的に多い。」とされています。
いま、田植歌そのものは知る人も謡う人も少ないですが、そこに込められていた思いや祈りは、必ず受け継がれていると私は思っています。
次回は、『田植草紙』の歌謡そのものにその魂を探してみます。私の心に響いた好きな言葉、独自の輝きや深さを秘めた言葉を見つけられたら、と願いつつ。
●以下は、出典からの引用です。1.「総説 囃し田とその歌謡」
「囃(はや)し田」とは、古来、安芸(あき)・石見(いわみ)地方、主に広島・島根両県の山間地帯に用いられてきた、儀式田植えの名である。初夏、一般の田植えにさきがけて、神社の神田、旧家大地主の田など選ばれた田に、豊作の祈りをこめて共同で盛大に行われた。花田植えともいう。
早朝五時ごろから始まり、日没まで行われる。多くの飾り牛が用いられ、早乙女(さおとめ)たちは美しく着飾り、多彩な絵巻が現出する。祭事と農耕に芸能が加わった、一日がかりの華麗な行事であった。今は各地での大がかりな催しはとだえたが、わずかに簡略な形で残存している。(略)
2.「『田植草紙』と音楽」
一 はじめに
(略)「囃し田歌謡群」の中で中心的存在である『田植草紙』の歌謡は、日本の民族音楽として労働歌謡と神事歌謡との両側面をもち、特に構成的に充実した中世風な美しい歌謡である。そして稲作農耕文化をもつ日本の重要な音楽であるということができるであろう。
二 囃し田と『田植草紙』の音楽
「囃し田歌謡群」は、中国山地、広島・島根両県を中心に分布する。「囃し田」「大田植」などとよばれる田植神事の中で歌われる田植歌謡で、その中で『田植草紙』は広島県山県郡新庄辺で古くから歌われてきたものを記録したものと認められている。この新庄地方の「囃し田」はその芸態の華やかな美しさから「花田植」とよばれている。
花田植は早朝定刻前にサンバイサン(田植のリーダー)・早乙女・楽団・花牛等が花宿に集結し、道行の音楽を奏しながら花田に向かう。神事は神主が「田の神」を祀(まつ)る「サンバイ棚に向かって「のりと」を奏上、花牛が代掻(しろか)きに出ると早乙女は苗をとり始める。
リーダーはすりざさらをたたきながら早乙女と交互唱で「田神おろし」の歌をうたう。と後ろに居並ぶ楽団、田鼓・小太鼓・銅子(どうばちし)・笛がこれを囃す。特に田鼓の鼓手たちは白い馬の毛のついたバチを中空に投げ散楽的な妙技を繰り返す。空の青とバチの毛の白、早乙女の美しい絣(かすり)の着物と赤だすき、萎えの緑、それは初夏の田園に花咲いた一大ページェントでありシンフォニーである。
一日の田植は『田植草紙』歌謡にあるごとく朝歌・昼歌・晩歌と歌によって運ばれてゆく。したがってリーダーは一日の労働の采配権をもち、音楽は、豊穣(ほうじょう)の祈願と労働能率の促進という二つの機能(役割)をもっている。
『田植草紙』には「朝歌一番」が欠落しているがこれは当然「田神おろし」の歌が入っていたと思われる。次いで「朝歌二番」から「晩歌四番」まで百三十四曲の田植歌謡が収録されている。
歌詞の上では非常にバラエティに富んでいるが旋律においてはその種類は多くなく、標準型田植歌(苗取歌も同じ)・ユリウタ・クリウタ、オロシ型の歌などの歌が主なものである。したがって同一旋律を異なる歌詞で歌う場合が圧倒的に多い。
五 日本の民族音楽と『田植草紙』歌謡
日本の民族音楽として『田植草紙』歌謡をみるときに、労働歌(民謡)としてと、民俗芸能の音楽としての両面からこれをとらえることができる。
(1) 労働歌としてみた『田植草紙』歌謡
稲作農耕文化をもつ日本では田植歌は最も重要な労働民謡であり、生活の中から出た日本人の心情が見事に歌いあげられていて、音楽的にみても他の民謡に比し古風が残り格調も高い。
日本の田植歌の分布をみると山陰から北陸にかけての日本海岸に古い歌が残っているといわれているが、『田植草紙』歌謡の存在する地域にある太鼓を伴わぬ「ひとつうた」とよばれる「小歌のネリ歌」などはこの種のものであると思われる。『田植草紙』歌謡を包含する「囃し田歌謡」はこのような古い歌をもととして中世に構成されたと考えられる(略)。
(2) 民族芸能の音楽としてみた『田植草紙』歌謡
『田植草紙』歌謡の神事歌謡としての側面は、民俗芸能の音楽としてとらえることができる。(略)
田楽(でんがく)系統の芸能は稲作の豊穣を祈願する各種の神事的な芸能を網羅するわけであるがこれを次のごとく大別する。
(イ) 田植神事・・・・・・田植の折の神事
(ロ) 田遊び・・・・・・正月の予祝行事
田植神事としては宮中の「悠紀」「主基」の大礼をはじめとした住吉神社・阿蘇神社・伊佐須美神社などは名高く、「田植祭」ともよばれる。「囃し田」も一種の田植神事と考えられている。
「田遊び」は正月に豊作を祈願し稲作のプロセスを模倣的に行い感染呪術を伴うものである。「田遊び」の芸能化したものに「田植踊」が東北に予祝行事として存在する。また「囃し田」の芸能が田をはなれて「田楽躍(でんがくおどり)が生まれている。(略)
『田植草紙』の田植神事の歌謡もこの中にあってきわだって構成的で音楽的であり、田楽系統の音楽の中でも、また日本の民族音楽の中でも白眉であると思う。
出典:
新間進一「田植草紙 総説、本文鑑賞」『鑑賞 日本古典文学 第15巻 歌謡Ⅱ』(1977年、角川書店)
内田るり子「『田植草紙』と音楽」(同上)。* 読みやすいよう、ふりがな、数字、記号、改行などの表記を変えた箇所があります。
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