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知里幸惠(二)遺稿「日記」

 知里幸惠(ちり ゆきえ)は、『アイヌ神謡集』の原稿が仕上がり印刷所へと送られた年の、大正十一年(1922年)九月十九日、享年十九歳で亡くなりました。(出版は翌年です。)
 亡くなった年の六月から九月の「日記」と「手紙」が遺稿として出版されています。公表を考えていなかったそこに記されている言葉、病と闘いながら、アイヌを思い、肉親を思う、心を痛める優しい生の声の切実さに、心を揺さぶられます。
 『アイヌ神謡集』という美しい祈りのような本を、彼女がどのような思いで生み出してくれたかを知り、この本に織り込められた願いと祈りをより心に聴き取るために、私の心に強く響いた言葉を書きとめます。
 今回は、遺稿の「日記」の、彼女が自分をみつめ自分に問いかけ見つけようとした、心の言葉です。

◎原点引用 (紫文字の箇所はとくに強く響いた言葉に私がつけたものです。)

「日記」  知里幸惠
大正十一年(1922年)
六月一日

(略)
今日は六月一日、一年十二ヶ月の中第六月目の端緒の日だ。私は思った。此の月は、此の年は、私は一たい何を為すべきであらう……昨日と同じに机にむかってペンを執る、白い紙に青いインクで蚯蚓の這い跡の様な文字をしるす……たゞそれだけ。たゞそれだけの事が何になるのか。私の為、私の同族祖先の為、それから……アコロイタクの研究とそれに連る尊い大事業をなしつゝある先生に少しばかりの参考の資に供す為、学術の為、日本の国の為、世界万国の為、……何といふ大きな仕事なのだらう……私の頭、小さいこの頭、その中にある小さいものをしぼり出して筆にあらはす……たゞそれだけの事が――私は書かねばならぬ、知れる限りを、生の限りを、書かねばならぬ。
――輝かしい朝――緑色の朝。(略)

六月二十四日
(略)
私は親の愛をつく/″\思ふ。父の愛、母の愛、それは何れ劣らぬものである。
父様とはまだしみ/″\とお話をしたことは無い。だけど私は、父の愛も母の愛も、私の胸にしっくりと刻みつけられてあるのを今見出す。今此の指の先を流れてゐる血も、父母のわけてくれた血、その血の中には絶えず父母の愛が循還(ママ)してゐるのだ。かうして私が父母を思出してゐる時も、父母はきっと私の事を思出してゐてくれるのだらう。それが何百里遠い此処まで私の心に通じ、硬ばった弁膜をとほして胸の底まで徹して、それでかうしてあふれる涙があるのではないかしら……。私は今日何うかしてゐる。何故こうも父母が思出されるだらう(略)
父様よ母様よ、私は父様にも母様にも不孝な子です。生れるから死ぬまで御心配かけどほしでした。これからだっても私に何が出来るでせう。今までより以上の不孝を続けるかも知れない。だから孝行などゝはあまりに大きくて、私にはそばへもよりつかれない事でありませう。此のまゝの状態で幸恵には何時此の世を去るべき時が訪れるかわからない。
此の世にうまれて何一つ仕出かしたいゝ事もなくて、何時私は死んでゆくかわからない。だけど、父様よ、母様よ、幸恵は生きてゐてなんにもおとっちゃんやおっかさんにいゝ言葉をおきかせしなかったし、ましていゝ事などは出来るはずもなかったけれど、幸恵の心は、おとっちゃんやおっかさんの慈愛に対する感謝でもって一ぱいになってゐたといふ事だけは真実な事です。ゆるして下さい。それだけでゆるして下さい。(二十五日朝)

六月二十九日
(略)
私たちアイヌも今は試練の時代にあるのだ。神の定めたまふた、それは最も正しい道を私たちは通過しつゝあるのだ。捷路などしなくともよい。なまじっか自分の力をたのんで捷路などすれば、真っさかさまに谷底へ落っこちたりしなければならぬ。
あゝ、あゝ何といふ大きな試練ぞ! 一人一人、これこそは我宝と思ふものをとりあげられてしまふ。旭川のやす子さんがとう/\死んだと云ふ。人生の暗い裏通りを無やみやたらに引張り廻され、引摺りまはされた揚句の果は何なのだ! 生を得ればまたおそろしい魔の抱擁のうちへ戻らねばならぬ。
死よ我を迎へよ。彼女はさう願ったのだ。然うして望みどほり彼女は病に死した。何うしてこれを涙なしにきく事が出来ようぞ。心の平静を保つことに努めつとめて来た私もとう/\その平静をかきみだしてしまった――だからアイヌは見るもの、目の前のものがすべて呪はしい状態にあるのだよ――。先生が仰った。おゝアイヌウタラ、アウタリウタラ! 私たちは今大きな大きな試練をうけつゝあるのだ。あせっちゃ駄目。ぢーっと唇をかみしめて自分の足元をたしかにし、一歩々々重荷を負ふて進んでゆく……私の生活はこれからはじまる。
人を呪っちゃ駄目。人を呪ふのは神を呪ふ所以なのだ。神の定めたまふたすべての事、神のあたへたまふすべての事は、私たちは事毎に感謝してうけいれなければならないのだ。そしてそれは、ほんとうに感謝すべき最も大きなものなのだ。(略)
赤ちゃんをおんぶして外へ出る。何だか自分が母親になった様な、涙ぐましいほど赤ちゃんがかはゆくて、母らしい気分で赤ちゃんをあやし、赤ちゃんの為に心配する……。子供が欲しい。またしてもこの望みが出てくるのだ。

七月十一日
母様からの手紙。松山さんの話、大尉の話、八重さんの話、すべてにお母様式を遺憾なく発揮してるのが面白く、またかなしい気がする。
葭原キクさんはほんとうに死んでしまったのだ。何卒嘘であってくれるやうに……と思った甲斐もなく。彼の女に就いて思出すことは、容貌の美しかったこと、よく泣く人であったこと、よく笑ふ人であったこと、幼い記憶に残ってるのは先づそんなものである。文字が上手であった。怒った時の表情も目の前に見るやうだ。動作はしとやかな、先づ私たちアイヌのうちにも彼女がゐたことは喜ばしいことである。私を可愛がってくれたった。
その人も今やなし。またしても何故アイヌはかうして少しよい人をみな失ってしまふのかと泣きたくなる。きくさんの娘はみゆきと言った。可愛い子であったが、父なく母なき孤子になってしまったのだ。妙に気にかゝって仕様がない。今は何処にゐるのか知ら。母親に似て、色白の顔の形もとゝのった美しい子だった。さうして、やはり母親に似て利発な子であった。今はもう十歳ぐらゐにもなるであらう。おゝかはいさうに。幼くして母を失ったおん身は、これから何ういふ生活に入るのか。さなきだに涙の多い母を持ったおん身だから涙もろい性質を持って居るのであらうものを、きっと、さびしい/\涙の子におん身はなるであらう。それもよし。泉と湧く涙に身を洗ったならば、おん身は却って、美しい清い魂を得るであらう。何卒さうなって下さい。涙の谷に身を沈めてはいけない。決して沈んでしまってはなりません。

七月十二日 晴、終日涼
(略)
岡村千秋さまが、「私が東京へ出て、黙ってゐれば其の儘アイヌであることを知られずに済むものを、アイヌだと名乗って女学世界などに寄稿すれば、世間の人に見さげられるやうで、私がそれを好まぬかも知れぬ」と云ふ懸念を持って居られるといふ。さう思っていたゞくのは私には不思議だ。私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である。
アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。
それに私は見上げらるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。
おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!


出典:青空文庫(入力:田中敬三、校正:川山隆)
底本:「銀のしずく 知里幸惠遺稿」(草風館、1996年)


 次回は知里幸惠の遺稿の「手紙」)の思いを感じ取ります。
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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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