Entries

口承文芸としてのアイヌ神謡

 今回は、口承の文化・文芸としてのアイヌの神謡を見つめなおします。
 狩猟生活に生き文字を持たなかったアイヌの人たちは、口承の文化・文芸の豊かな森を受け継いできました。節を持たずに語り継がれた昔話もこの他にありますが、私の最も好きで、アイヌの心の詩だと感じている神謡について考えます。

 知里真志保(ちり ましほ)は、「神謡について」で、「折返(リフレイン)を以て謡われるということが,神謡においては必須の条件」だと、その重要性を教えてくれます。
 次に、折返(リフレイン)の数は、通常一篇の主人公に固有な一種類だけど、途中で話し手(主人公)が交代する場合には折返(リフレイン)も交代するとします。神謡の途中で「ここからは話し手が変ります」という変化が私はとても好きです。
 折返(リフレイン)の位置と意味については、無数にある神謡ごとの多様性をもっていること、その神・主人公にふさわしい顔をした節と音色を響かせることを教えてくれます。これはアイヌの神謡の魅力を生み出している源泉ではないかと私は感じます。

 私が口承文芸という文化についてまず一番に感じるのは、無数にある種類の、短いもの長いものさまざまな神謡が、文字なしに、記憶だけで、受け継がれ伝えられてきたことのすごさに対する感動です。どうして覚えられるのだろうという、素朴な感嘆です。
 伝わる過程での変化は当然あるとしても、心に揺れ続ける節・リズムなしには、記憶し暗唱し伝えることはできないと思います。逆に言えば、節・リズムと折返(リフレイン)こそが時の流れを渡してくれた壊れない舟なのだと思います。

 十数年前に神謡の録音を聞いたことがあります。節と抑揚はとても控えめで単調ともいえる、内にこもっていくような声での浮き沈み繰り返しです。激しい曲調の変化のようなものはありませんでした。歌詞は覚えられなくてもメロディーだけ口ずさめるような、曲に歌詞がつけられた歌ではないと感じました。
 金田一博士が「神謡は純然たる宗教説話の詩篇」と述べたように、私も謡われる祈りの詩だと体感しました。
 知里真志保が、アイヌは「折返をもって謡われるのでなければ,それをただちに神謡とは認めない」と教えてくれるように、詩篇の言葉のゆらぎは、主人公で話し手である神の心の声として歌われ、聞き手はその揺り返す声に包まれるのだと思います。
 そのとき、神謡ごとに固有の、主人公で話し手である神の姿、顔立ちをまざまざと浮び上がらせるのは、折返(リフレイン)がもつ力なのだと思います。歌う者も聞く者も、固有の節で折返(リフレイン)を繰り返すうちに、神謡の世界に深く惹き込まれてゆき、実際に神がその場にいて神が歌っていると実感し体感できたから、そこに響いた言葉は強い印象と一体となって記憶に焼けつき消え去らないのだと思います。
 知里が教えてくれるように、「神謡が古くは祭儀において所作に伴って歌唱されたもの」、そのような祭儀の心、アイヌの祈りが受け渡されてきたものだと感じます。
 姉の幸惠が、『アイヌ神謡集』の「序」で記したように、「一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝き」が神謡なのだと思います。

 私は日本の言葉と調べ、短歌も詩も、琵琶法師が口承した平家物語も好きでそれぞれの良さに感動しますが、アイヌの神謡にはそれらにはない魅力があります。
 アイヌの神謡のいちばんの特徴、素晴らしさは今述べたように、アイヌの神謡が謡われる言葉の揺らめきとともに私の心が揺れ動きだすとき、アイヌが優しい眼差しでみつめ謡い祈っている世界、身近な神たちが息づき共に生きている豊かな森が生い茂っていて、私もその世界に包まれその森にいる、と感じさせてくれることです。

◎原点の引用 (紫文字箇所は強調のため私がつけました)
「神謡について」知里真志保

3.神謡の条件

(e) 神謡の数はほとんど無数といっていいほどたくさんあるが,一篇一篇,特有の曲が附いていて,中にはかなり変化のある花やかな調子で歌われるものもある.(略)
 金田一博士は,「神謡は純然たる宗教説話の詩篇で,がいして短いが,数は無数であり,節も一つ一つ違い,特有の折返(アイヌ語ではsakehe「節の所」)をもって,全部がその折返(リフレイン)の節で謡われて行く音楽的なものである.」(「アイヌの民族的叙事詩」)(『文学』第3巻第11号)といっておられる.
 この折返を以て謡われるということが,神謡においては必須の条件である.神謡の条件として,それはまさに決定的である.この条件さえ満たされるならば,主人公が人間であっても,説述が第三人称で行われても,アイヌはそれを神謡と認めるのに躊躇しないが,反対に主人公が神でも,第一人称で語られても,折返をもって謡われるのでなければ,それをただちに神謡とは認めないのである.(略)

4.神謡の折返(略)
(a) 折返の数.
 一篇の神謡は一個の折返を持つのが普通である.しかるに神謡の中には二個以上の折返を持つものがある.(略)一つの神謡が途中から別の折返をとるのである.(略) 途中から主人公が変わるとそれにつれて折返の変わるもの(略)が断然多く,それが本原に近い形式である.
(b) 折返の位置.
 折返は種々の位置につく.(1)各句の冒頭に繰り返されるもの,(2)各句の末尾に繰り返されるもの,(3)ところどころに規則的に繰り返されるもの,(略),等々.第一の場合が最も多く,それが本来の形式であった.第二の場合もかなり多いが,第三の場合は稀(略).
 神謡の折返は本来動物神の名乗みたいなものであるから,最初につくのがもとの形式であり,また詞章の切れ目に入れられるものであるから前の句の句尾に属するかのように意識されるのも自然である.
(c) 折返の意味
折返の中には,今では全く意味不明に帰してしまったものもかなりある.(略)現在意味のとれるものだけについて見れば,ほぼ四つの場合に分けられる.
 (1) その神謡の主人公たる神本来の歌声が折返となっているもの.
 例えば熊の神謡の折返,「フウェ・フウェー!」(huwe huwe)とか「ホウェーウェ・フム」(howewe hum)とかいうのは,ウェーウェーという熊の鳴き声であり,また鳴声を含むものである.(略)
 (2) その神謡の主人公たる神を一般的に観察した場合その特徴となるような動作または性質を把えてその主人公を象徴的に示すもの,(略)
 火の神の折返に「アペメル・コヤン・コヤン」(ape-meru ko-yan ko-yan)[火の光・あがる・あがる](略)
 (3) その説話における主人公の臨時的にとる動作,あるいはその説話のなかの状景あるいは事件そのものを象徴的に表わすもの.
 「シュマヅム・チャシチャシ・トワトワト,ニイヅム・チャシチャシ・トワトワト」(suma-tumu chas-chas towa towa to,nitumu chas-chas towa towa to)[石原さらさら駈けぬける,木原もさらさら駈けぬける]という折返の神謡では,狐が実際に日中石原や木原を駈けすりまわるのである.(略)
 (4) 叫び・はやし・かけ声の類もある.
 「ウンナ・オーイ」(unna oy)という神謡の折返は,危急を告げる女の叫び声「ホーイ」を含む(略).

 以上四種の折返の存在は,神謡が古くは祭儀において所作に伴って歌唱されたものであると考えることによってのみ,その意義を把えることができよう.

出典:「神謡について」知里真志保(『アイヌ神謡集』(岩波文庫、1978年)所収)
底本の親本:「神謡について」(一)(『知里真志保著作集』第1巻(平凡社1973年)所収)
 

 次回は、『アイヌ神謡集』の「美しい魂の輝き」を聴き取っていきます。

関連記事
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
https://blog.ainoutanoehon.jp/tb.php/109-2bee148e

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

最新記事