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自由詩と定律詩。萩原朔太郎「自由詩のリズムに就て」

 前回に続き、萩原朔太郎の詩論を通して、詩って本当は何なのか、考えます。冒頭に私が朔太郎の言葉に学び共感し考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。

 萩原朔太郎は、詩集『青猫』の付録として「自由詩のリズムに就て」を発表しています。『青猫』とそれに続く『蝶を夢む』が朔太郎の詩の中で私はいちばん好きです。彼が切り開いた口語自由詩の魅力と可能性を今なお伝え教えてくれる詩作品として、高村光太郎のまた異なった独自の世界と共に。
 日本語による文学が文語から口語に、言文一致の波をまともに浴びて変化していく渦中で、朔太郎は詩を、言葉を、日本語を、口語を考え、その可能性を手探りし、心に響く詩をつくりました。

 朔太郎はこの詩論でまず、定型詩と自由詩の違いの本質を、自由詩は「耳に聽えない韻律(リズム)」を奏でることにあると、言います。定型詩と異なり自由詩は「感情本位」「旋律本位」の音楽だ、と言います。とても新鮮で本質を捉えた言葉、今でもそのまま変わっていない自由詩の本質を捉えた言葉だと、私は思います。

 その美しい音楽、言葉の旋律は、言葉の音韻的效果と、言葉のもつありとあらゆる屬性――調子(トーン)や、拍節(テンポ)や、色調(ニユアンス)や、氣分(ムード)や、觀念(イデア)――による綜合的な自由詩のリズムとして、ただ詩句の全體から、直覺として「感じられる」ものだ、と言います。その通りではないかと私は思います。詩人の「心内の節奏と言葉の節奏とは一致する」。
 
 短歌のような定型詩との違いを考えるとき、「その心に明白なる音樂を聽き、詩的情操の醗酵せる抑揚を感知するに非ずば、自由詩の創作は全く不可能である。」という言葉は、自由詩の核心を捉えていると思います。
 自由詩には定型詩のように「便利なる「韻律の軌道」がない。」だから詩人は「一篇毎に新しき韻律の軌道を設計せねばならぬ。」そして、「心の中の音樂がそれ自ら形體の音樂であつて、心内のリズムが同時に表現されたるリズムである。」と。自由詩が短歌の調べほどに美しくないと感じられたとしたら、それは詩人が「心の中の音樂がそれ自ら形體の音樂」になっている詩にまで高められなかったか、読者にその音楽を聴き取れる心の耳がまだ育っていないか、そのどちらかだと思います、でも心の中の音楽が嘘の拵え物でない本当さを奏でられたら、読者の心の耳は自然に素直に開かれる、と思います。そのような詩を奏でることが、私の願いです。

 どのような詩が好きかは、最後は趣味の問題です。でも、少なくとも本当に詩を感じたいと願うような優しく柔らかな傷つきがちな心をした人になら届く詩、言葉、思い、音楽は、あると、私は知っています。そんな詩を生みたい、そんな詩に出会い、そんな詩を聴き取り、心に響かせ、ゆたかに揺れる思いを感じとりたい、そう願って私は今生きています。

◎原典からの引用
 以下はすべて、詩集『青猫』付録「自由詩のリズムに就て」の萩原朔太郎の原文の引用です。その核心の言葉を私が抽出し強調したい箇所は薄紫太文字にしました。

「耳に聽えない韻律(リズム)」それは即ち言葉の氣韻の中に包まれた「感じとしての韻律(リズム)」である。そして實に、此所に自由詩の詩學が立脚する。(略)我我は詩想それ自身の抑揚のために音韻を使用する。即ち詩の情想が高潮する所には、表現に於てもまた高潮した音韻を用ゐ、それが低迷する所には、言葉の韻もまた靜かにさびしく沈んでくる。(略)定律詩と自由詩との特異なる相違を一言でいへば、實に「拍子本位」と「旋律本位」との音樂的異別である。(略)我我の音樂的嗜好は、遙かに「より軟らかい拍節」と「より高調されたる旋律」とを欲してきた。即ち我我は「拍節本位」「拍子本位」の音樂を捨てて、新しく「感情本位」「旋律本位」の音樂を創造すべく要求したのである。(略)我我は詩の拍節よりも、むしろ詩の感情それ自身――即ち旋律――を重視する。我我の詩語はそれ自ら情操の抑揚であり、それ自ら一つの美しい旋律である。(略)旋律は形式をもたない。旋律は詩の情操の吐息であり、感情それ自身の美しき抑揚である故に、空間上の限られたる形體を持たない。(略)

(略)詩句の異常なる魅力は、主として言葉の音韻の旋律的な抑揚――必しも拍節的な抑揚ではない――にある。勿論またそればかりでない。詩句の各各の言葉の傳へる氣分が、情操の肉感とぴつたり一致し、そこに一種の「氣分としての抑揚」が感じられることにある。(勿論この場合の考察では詩想の概念的觀念を除外する)此等の要素の集つて構成されたものが、我等の所謂「旋律」である。(略)どこにその美しい音樂があるか、我等は之れを分析的に明記することができない。ただ詩句の全體から、直覺として「感じられる」にすぎないのだ。(略)言葉の旋律! それは一つの形相なき拍節であり、一つの「感じられるリズム」である。(略)全曲を通じて流れてゆく言葉の抑揚や氣分やは、直感的に明白なリズムの形式――形式なき形式――を感じさせる。(略)我我は音樂のより部分的なるリズム全體、即ち旋律と和聲とをそつくりそのまま表現しようとする。(略)第一に先づ言葉の音韻的效果が使用される。我我の目的は、それとはもつと遙かに複雜なリズムを彈奏するにある。(略)また音韻以外、およそ言葉のもつありとあらゆる屬性――調子(トーン)や、拍節(テンポ)や、色調(ニユアンス)や、氣分(ムード)や、觀念(イデア)――を綜合的に利用する。(略)自由詩の表現は、實にこの詩想の抑揚の高調されたる肉感性を捕捉する。情想の鼓動は、それ自ら表現の鼓動となつて現はれる。表現それ自體が作家の内的節奏となつて響いてくる。詩のリズムは即ち詩の VISIONである。かくて心内の節奏と言葉の節奏とは一致する。内部の韻律と外部の韻律とが符節する。(略)

(略)自由詩には、この便利なる「韻律の軌道」がない。我等の詩想の進行では、我等自ら軌道を作り、同時に我等自ら車を押して走らねばならぬ。。(略)我等は一篇毎に新しき韻律の軌道を設計せねばならぬ。(略)自由詩の作曲に於ては、心の中の音樂がそれ自ら形體の音樂であつて、心内のリズムが同時に表現されたるリズムである。故にその心に明白なる音樂を聽き、詩的情操の醗酵せる抑揚を感知するに非ずば、自由詩の創作は全く不可能である。(略)詩の詩たる特色は、リズムの高翔的美感を離れて他に存しない。「心内の節奏」とは、換言すれば「節奏のある心像」の謂である。節奏のない、即ち何等の音樂的抑揚なき普通の低調な實感を、いかに肉感的に再現した所でそれは詩ではない。なぜならばこの類の者は、既にその心像に快美なリズムがない。どうしてその再現にリズムがあり得よう。リズムとは單なる「感じ」を言ふのでなく、節奏のある「音樂的の感じ」を言ふのである。それ故に自由詩は、その心に眞の高翔せる詩的情熱をもつ所の、眞の「生れたる詩人」に非ずば作り得ない。心に眞の音樂を持たない人人にして、もしあへて自由詩の創作を試みるならば、そは單に「實感の如實的な表現」即ち普通の散文となつてしまふであらう。(略)今日「韻文」と「散文」との相對的識別は、その外觀の形式になくして、主として全く内容の表現的實質に存するのである。(略)その一方の表現に於ては、言葉が極めて有機的に使用され、その一つ一つの表象する心像、假名づかひや綴り語の美しい抑揚やが、あだかも影日向ある建築のリズムのやうに、不思議に生き生きとした魅惑を以て迫つてくる。作者の心内の節奏が、それ自ら言葉の節奏となつて音樂のやうに聽えてくる。(略)一言にして定義すれば「詩とはリズム(内的音樂)を明白に感じさせるもの」であり、散文とはそれの感じられないもの、もしくは甚だ不鮮明の者である。(略)

 (略)自由詩は、本質的に主觀的、感情的、象徴的、音樂的である。(略)自由主義の美は、空間的の繪畫美でなくして時間的の音樂美であり、その形式は「眼に映る形式」でなく「感じられる形式」を意味するから。(略)自由詩の特色はその「旋律的な音樂」にある。心内の節奏と言葉の節奏との一致、情操に於ける肉感性の高調的表現、これが自由詩の本領である。(略)即ち格調の曖昧な、拍子の不規則な、タクトの散漫で響の弱いものとして現はれる。(略)旋律は拍節の部分的なもの、言はば「より細かいリズム」である故に、しぜんその感じは纖細軟弱となり、スケールの豪壯雄大な情趣を缺いてくる。(略)古典派の尊ぶものは、莊重、典雅、明晰、均齊、端正等の美であるのに、すべて此等は自由詩の缺くところである。(略)しかしこの類の議論は、結局言つて「趣味の爭ひ」にすぎぬ。定律詩と自由詩、古典主義と自由主義とは、本質的にその「美」の對象を別にする。(略)

引用は、青空文庫http://www.aozora.gr.jp/)入力:kompass 校正:門田裕志、小林繁雄、を利用しました。底本:「萩原朔太郎全集 第一卷」筑摩書房。
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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年同
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年同
「愛(かな)」1993年同
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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