今回から複数回にわたり、
詩人・萩原朔太郎の詩論、詩歌についての思いについて、その要点を抽出し、考えたいと思います。詩歌を深く愛し、言葉・歌について深く考え、心に響く詩を作った朔太郎に私は、多くのことを学びました。
各回とも冒頭に私が朔太郎の言葉に学び共感し考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。
初回は、
詩集『月に吠える』の序での、朔太郎の詩についての宣言です。
私が愛する詩人たちがみなそうであるように、朔太郎はまず詩は「感情をさかんに流露させること」と宣言します。詩は理屈ではないと。そして、「詩の表現は素樸なれ」と。良い詩、心に響く詩はみなそうだと、私は考えています。
次に音楽と詩。これについては次回以降何度も考えます。
そして、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』は、一人しかいない私を深く掘り下げて、世界中の何びとにも共通なる感情の泉につながること、「この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。」との言葉に私は共感し感動します。
朔太郎は、「やさしい手をおいてくれる」「看護婦の乙女が詩」だと言い、「詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとを」感じ、「人情のいぢらしさに自然に涙ぐましくなる」と言います。
詩についての考え・好みは人それぞれ違うけれど、私は朔太郎の詩へのこの思いに共感し、詩歌は本来このようなものだと考えています。世界中の何びとにも共通な感情をこの心に感じとれる詩歌が、私は好きです。
次回は、詩集『青猫』で表明された朔太郎の言葉を考えます。
◎原典からの引用以下はすべて、
『月に吠える』序の萩原朔太郎の原文の引用です。その核心の言葉を私が抽出し強調したい箇所は薄紫太文字にしました。
詩の本来の目的は(略)、
人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。すべてのよい叙情詩には、
理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを
詩のにほひといふ。(略)
詩の表現は素樸なれ、詩のにほひは芳純でありたい。 私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では
言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。(略)どんな場合にも、人が
自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには
音楽と詩があるばかりである。 私の
この肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた
同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。
この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。
この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。 詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。(略)詩は予期して作らるべき者ではない。
私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、
やさしい手をおいてくれる乙女がある。その
看護婦の乙女が詩である。
私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。(略)詩を思ふとき、私は
人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。 引用は、青空文庫(
http://www.aozora.gr.jp/)入力:福田芽久美 校正:野口英司、を利用しました。
底本:「現代詩文庫 1009 萩原朔太郎」思潮社
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