Entries

小倉百人一首の韻律美。萩原朔太郎

 和歌は黙読されていなかったことは記録から確かです。では和歌がどのように声にのせ歌われてきたのか、私は知りたいと思います。百人一首のカルタで今も詠みあげられる節は清流のようにさらさらとした美しい流れですが、古い時代においては、また違う詠みかたをされていたような気がします。
 現代人の感覚では遅すぎるくらいに、大きく呼吸の間をとり、かなりゆったりと詠まれたのではないでしょうか。どのような節がどの程度つけられたかは、時代によっても移り変わっただろうけれど、男性の声、女性の声、それぞれの美しさ、低音と高音の良さが生かされ美しく感じられた詠みあげ方、と考えると、音階のはっきりした節らしい節、曲調そのものに変化はあまりなく弱くて、詠みあげる声の強弱、緩急と間の取り方を主とした、声の響きそのものに耳を澄ませたのではないか、とも考えています。

 萩原朔太郎歌論「歌壇の問題 二」「小倉百人一首のこと」との節を設けて、その韻律美について述べています。
 彼と同時代の歌壇の歌人の多くが、小倉百人一首を「大部分が題詠歌で、言語の洒落や語呂合せ(即ち掛け詞)を主としたところの、無内容な遊戯歌」と軽侮していることに対して、「芸術といふものは、本質的に一種の美的遊戯なので、遊戯を忘れて芸術のエスプリは存在しない。」と反駁している彼に、私は共感します。
 遊びそれ自体は悪ではありません。遊びが文化の源です。それを否定したら残るのは食と性だけの索漠とした生です。頭ごなしに遊びは駄目と決めつけて抑えつけるのではなく、その質を評価したほうが実り多いと私は考えます。

 朔太郎はその反駁のうえで、小倉百人一首の歌はどれも、「詩想の内容する主題よりも、韻律の美によつて構成される音楽的陶酔を重視」した秀歌であり、日本語詩歌に於ける音楽的の美しい声調、朗々たる諧音、韻律の最高美、歌の形式的完美を響かせている、と言います。
 より具体的には、日本語が持つ限りのあらゆる韻律的美的構成(脚韻、頭韻、重韻、反覆韻)、特に「掛け詞」の重韻律に日本語の特殊な音楽美を最も力強く有効に生かしている、と彼の鋭敏な心の耳で聴きとり、主張しました。

 朔太郎はこの歌論で、「音楽の耳を忘れてゐる」という言葉を、直接には当時の日本の歌壇に向けていますが、韻律美では短歌が口語自由詩より数段進んでいると言い切る彼はこの言葉で、詩と詩人も射抜いていて、次の言葉を言い放ちます。
 詩を理解するといふことは、第一に「言葉の音楽」を理解し、その音楽の中に自ら溺れ、音楽に於て自ら陶酔する人だけが、真に詩を理解し、詩を批判し得る人なのである。
  
◎以下は、萩原朔太郎の原文です。

 最近或る短歌雑誌で、小倉百人一首に関する批判とその愛好歌とを、歌壇の各方面に問合せた答えを見るに、百人中九十人迄は、頭から百人一首を軽侮して居り、愚劣な駄歌ばかりだと言つて一蹴して居る。(略)
 僕は専門の歌人ではない。だが百人一首の妙趣すら解らないで、一角の歌よみ顔してゐる現歌壇の諸家たちには、少しく奇異の念を抱かざるを得ないのである。何となれば百人一首の選歌は、主として古今集以後新古今集に至る迄の、勅撰八代集中の代表的秀歌を採り、且つそれが実際にまた、音楽的の美しい声調を盛つて居るからである。(略)

 その理由を聴くと、選歌の大部分が題詠歌で、言語の洒落や語呂合せ(即ち掛け詞)を主としたところの、無内容な遊戯歌だと言ふのにある。しかし芸術といふものは、本質的に一種の美的遊戯なので、遊戯を忘れて芸術のエスプリは存在しない。芸術から遊戯を除けば、そこには何の恍惚もなく陶酔もなく、単に乾燥無味の現実的実感が残るばかりだ。そしてこんなものは美―すくなくとも詩美―の範疇に属して居ない。(略)

 特に小倉百人一首の選歌批準は、主として歌の形式的完美を尊び、詩想の内容する主題よりも、韻律の美によつて構成される音楽的陶酔を重視して居る。したがつて此等の歌には、およそ日本語が持つ限りの、あらゆる韻律的美的構成(脚韻、頭韻、重韻、反覆韻)が試みられてゐる。就中「掛け詞」の重韻律は、日本語の特殊な音楽美を最も力強く有効に生かすものとして、当時の和歌の一大特色となつてゐるのである。(略)

 小倉百人一首の選歌の如く、初めから韻律の音楽美を本位として、形式主義の鑑賞から見られた秀歌が、内容編重の先入見に捉はれてゐる現歌人等に理解されず、単なる言葉の遊戯として、無内容な駄劣歌として見られるのは、当然である。(略) 実に日本の現歌壇は、「音楽の耳を忘れてゐる」のだ。

 小倉百人一首の選歌は、何れ一つ取つて見ても、すべて皆朗々たる諧音の美を有して居り、重韻や「掛け詞」の巧みな使用で、日本語詩歌に於ける韻律の最高美を構成している。
 詩を理解するといふことは第一に「言葉の音楽」を理解するといふことである。否、単に理解するのではなく、その音楽の中に自ら溺れ、音楽に於て自ら陶酔する人だけが、真に詩を理解し、詩を批判し得る人なのである。

出典:「歌壇の問題二」、『萩原朔太郎全集 第七巻』(1976年、筑摩書房)
    (*字体のみ新字体に変え、読みやすいよう改行をふやしました。)
底本:『水甕(みずがめ)』1933年(昭和8年)5月号。

 和歌の韻律美について彼は、名著『恋愛名歌集』で愛唱する歌を通してより丁寧に伝えてくれていますので、次回、感じとりたいと思います。

関連記事
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
https://blog.ainoutanoehon.jp/tb.php/127-f59f6399

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年同
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年同
「愛(かな)」1993年同
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

最新記事