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時代の情操と音律『恋愛名歌集』(一)萩原朔太郎

 百人一首の韻律美について前回考えたことを受け、萩原朔太郎の『恋愛名歌集』を通して短歌の韻律美を、複数回にわたり感じとっていきます。私は詩人ですが、日本語で表現することでは、和歌、短歌と同じ水流にいるので、受け継がれてきた日本語の歌の本質と特質を学びつつ伝えたいと考えています。

 萩原朔太郎は『恋愛名歌集』の序言でまず、広義の韻律とは「言語の魔力的な抑揚や節奏」であり、「詩と韻律とは同字義」との世界共通の詩の根本定義を確認します。そのうえで彼は、「日本語として、歌が構成し得る最上の韻文」であるとして、『恋愛名歌集』に書き表した主題と意義を次の言葉で述べます。
「古来の名歌と呼ばれる者が、いかに微妙な音楽を構成すべく、柔軟自由の不定則韻―それが日本語の特質である―を踏んでるかを見よ。」
 私はこの本からこの微妙な音楽を教えられ感動しました。豊かなその内容からまず今回は、日本語の韻文の最大の特徴と一般に考えられている音律、字数律について考えます。

 日本の学校では誰もに次の知識を教えてくれます。「短歌は三十一文字の表現で、万葉集は五七調、古今集以降は七五調が主流」。私もこのことを暗記しましたが、ずっと後まで、五七調も七五調もリズムそのものとしての違いがわからないまま、感じることもできませんでした。
 朔太郎は『恋愛名歌集』の総論「奈良朝歌風と平安朝歌風 3」で、この基本形式を振り返っています。そこでの言葉は常識的なことですが、五七調と七五調のちがいが初めてわかり、感じることができ、私にはとても新鮮でした。
 まず、私が大切だと思うのは、「短歌の形態はもと長歌の凝縮から来ている」ことを感じることです。長歌の五七調のくりかえし、ゆたりゆたりと続いていく言葉のリズムは、日本語を母国語とする誰もが親しみ深く知っています。(私は長歌のリズムが好きで、柿本人麿や山上憶良を読み返すと、詩句を忘れた後でも五七調のリズムだけは心に残り揺り返し続けるのを感じます。)
 その「長歌を最短の形に凝縮した者が短歌」だから、「57・57の反覆による所謂五七調」のリズムを持っている。短歌の形態は「万葉集では反歌として現われている。」、即ち短歌では57・57を二度繰返し、最後に結句(コーダ)として7を重ねる。」
 長歌の反歌として生まれた短歌が五七調であることが、私はとても自然に受け容れられます。

 そのリズムが変ったのはなぜか? この理由については朔太郎が記すように、「各々の時代の情操が、各々の表現する必然的律格を作った」、「つまり内容が形式を生んだ」としか言えないと私も思います。「万葉の内容には万葉の音楽があり、古今の内容には古今の音楽が必要であり、この情操と音楽とを、相互交換できない」、彼ら自身、なぜ変ったか、その理由などわからないと思います。後に生まれた私にはその時代に生きた人たちの音楽、心のリズムを聴きとることができるだけです。
 私にできることは、どのように変ったか? 現れた心のリズムを感じとることです。朔太郎は、その聴きとり方を例歌も示して丁寧に教えてくれます。
 「短歌は三十一音律の構成」なのは共通だけれども、「その節律に於ける行の切り方(即ち呼吸の切れ目)」に時代で違いが生まれた。
「最も長く呼吸を休」む「節律の最も重要な句切り」があり、そこが変わった。
 この言葉を思いつつ短歌をゆっくり詠むと、歌のリズムは呼吸そのものだということ、五七調の歌と七五調の歌は、最も長く呼吸を休むところが確かに変っていると、感じとれます。私は初めてわかったこと、歌の呼吸を感じたとれたことが、とても嬉しく感動しました、小学生のように。

 音数律、字数は誰にでも数えられわかりやすい韻文としての特徴ですが、日本語の歌はより微妙な音色を奏でていることを、次回以降に、『恋愛名歌集』を通して聴きとっていきます。

◎以下は、朔太郎の原文です。

序言
 (略)日本の歌は、日本語の特殊な性質―実際それは世界的に特殊である―と関連して、他国に類のない韻文である。したがってその芸術価値も独自であり、西洋の抒情詩等と優劣を比較し得ない。(略)
 古来の名歌と呼ばれる者が、いかに微妙な音楽を構成すべく、柔軟自由の不定則韻―それが日本語の特質である―を踏んでるかを見よ。(略)
 日本語として、歌が構成し得る最上の韻文である。(略)
 詩は韻律と共に発生し、かつ韻律を求めて表現する。詩の概念定義は如何にもあれ、それが人を陶酔させる実の力は、主としてその文学に特有している、言語の魔力的な抑揚や節奏―それが広義の韻律である―に係っている。この音楽から来る不思議の酔いが、それ自ら「詩」と呼ばれる不思議な感情である故に、詩と韻律とは同字義であり、広義の韻文であることなしに、詩である文学は無いわけである。

総論
 奈良朝歌風と平安朝歌風 3
 (略)短歌は三十一音律の構成であり、(略)その節律に於ける行の切り方(即ち呼吸の切れ目)を種々に変えることによって、同じ短歌が二行詩にもなれば三行詩にもなり、したがってまた七五調にも五七調にも変わるのである。
 ところで短歌の形態はもと長歌の凝縮から来ているので、これが万葉集では反歌として現われている。(略)最短の形に凝縮した者が短歌である。 即ち短歌では57・57を二度繰返し、最後に結句(コーダ)として7を重ねる。
 万葉集に於ける短歌の韻律原則は、実にこの長歌の最短形式によっているので、 57・57の反覆による所謂五七調なのである。
 然るに古今集以後の歌になると第一句の五音が分離して一行となり、次の第二句から行頭を起すために、自然75・75の反覆となり、此所に所謂七五調が出来て来るのだ。即ち次に示すが如し。

 57●57・7  (奈良朝)
 玉藻刈る5 みぬめを過ぎて7 ● 夏草の5 野(ぬ)島の崎に7 船近づきぬ7  (万葉集)

 5・75●75・2 (平安朝)
 思ひきや5 逢見ぬほどの7 年月を5 ● 数ふばかりに7 ならむ物5 とは2 (拾遺集)


 ●印の所は節律の最も重要な句切りであって、此所で最も長く呼吸を休み、以下を続けて一息に詠んでしまう。故に万葉調も平安調も、共にひとしく二行詩の形態ではあるけれども、行の切り場所がちがうのである。
 (略)各々の時代の情操が、各々の表現する必然的律格を作ったので、つまり内容が形式を生んだのであるが、これをまた逆に考えれば、形式の変化が内容を推移させたとも言えるだろう。所詮芸術に於ける形式と内容とは、一枚の板の裏表、鏡の実体と映像に外ならない。
 (略) 平安調の美がその言語の旋律部にあり、平板の中に複雑な曲線を持つことを知るであろう。言わば万葉は節瘤(拍節)の多い竹であり、平安調はその拍節を滑らかに削りきって、言語の音韻がつながって行く自然の模様を、複雑微妙の螺旋で描いているのである。(略)万葉の内容には万葉の音楽があり、古今の内容には古今の音楽が必要であり、この情操と音楽とを、相互交換できない(略)。

出典:『恋愛名歌集』(1931年・昭和6年、第一書房、1954年、新潮文庫)。

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年同
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年同
「愛(かな)」1993年同
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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