萩原朔太郎の詩と詩論を数回にわたって取りあげました。著名ではありましたが彼は生活無能者とされながら詩に生きました。私はそのような朔太郎が好きです。
この「詩で想う」で取りあげる古典、詩人、詩集について、私は書く際に(学術的な細かさ自体に価値を求めるわけではなく)、詩人への礼節と偏向を避けるためと、自分が少しでも深く知りたいから、その詩人のすべては無理でも、できるかぎり主要な詩、評論は必ず読み返しています。
朔太郎について共感を多く述べてきましたが、
『萩原朔太郎全詩集』(筑摩書房)を図書館で借りて読み、以下のことも記しておきたいと考えました。
朔太郎は、
1937年12月13日付「東京朝日新聞」につぎの言葉(私にとって詩ではありません)を発表しています。題名は、
「南京陥落の日に」。タイトルの通り、当時のマスコミ、大新聞が書き散らした、戦争勝利万歳の言葉です。それは国が戦さに勝って熱狂する臣民共有の感情(その感情を共有しない人間は非国民)を、マスコミが好み原稿料を払うその場限りの言葉で書きたらしたものです。当時の大多数の臣民を代表する言葉です。けれどそれは政治屋、マスコミに求められたものを返した空虚な所感でしかありません。
政治屋、マスコミは多数者に「ウケる」方向に曲がります。その時有利な言論を喋り散らかし自分が正しいと主張しますが、後で権力を握った者や、多数派となった者に間違っていたと言われたら、弁解が驚くほど巧みにできる賢しらな頭脳をもっているし正反対に転向しても同じ顔でいられる無神経さの潜在能力があります。
詩人もただの人間で完璧なわけがなく過ちだらけであるけれども、私は少なくとも、
詩でないものを詩として発表することだけは恥じるべきことだし詩人としての自殺だと考えます。いくら周りのほとんど全員がしゃべりちらかし、わめいていても、同じように思ってしまい、しゃべりたい場合でも、しゃべっていても。
戦争で殺し合いをせざるを得ない状況にまで追い詰められている
個人の思いを、一人一人の心の表情を(捉え方はどのようであっても)伝えることができない言葉は文学ではない、少なくとも詩ではない、と私は考えています。心を描かない戦争小説は拵え得ても、詩には成り得ません。
朔太郎が本気でこの言葉を詩と考えていたのなら彼はそのときにはもう詩人でなかったのだと思います。そのときの風潮・一般思潮に埋もれたその場限りの言葉を詩であるなんて思えたとしたら彼の心はもう既に潰されていたのだ、または原稿料がどうしても必要だったか、周りに少し持ち上げられることが必要だったのかと、悲しくなります。彼はもう行き場がなかったんだろうか? 詩人として自分が終わったと感じていた気がします。詩集をだしたらずっと詩人という迷信はつまらない嘘だと彼は知っていただろうし、私の自戒をこめて記します。
一方で朔太郎は
「近日所感」(出典同上)という次のような言葉も発表しています。
「朝鮮人あまた殺され/その血百里の間に連なれり/われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」。
この言葉は殺された人たちを思う心が少しはあるか? あるならまだマシか?
でもこの言葉はやはり「所感」としか感じられません。この言葉から真実の怒りは伝わってこないし、殺された人とともにある悲しみはない、書かずにはいられない思いが込められていない、マスコミに頼まれた原稿料分の所感で、詩人・萩原朔太郎の詩ではないと私は感じ、追い詰められた詩人・朔太郎を悲しく思います。
戦時の言論と詩、詩人については、敬愛する
高村光太郎の詩をとりあげる時にも、もう一度考えたいと思います。
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