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空(くう)の空の空を撃つ。北村透谷

 北村透谷の「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を通して、詩を見つめます。
 北村透谷は25歳でなくなるまで、明治二十年代の数年間に新しい時代の文学を切り開こうと苦闘し、文学の根底まで掘り下げた評論、詩、小説を書きました。
 透谷は自由民権運動へ関与し離脱する経験を通して、政治によってではなく文学によってこそ自らの大志を実現させる道があると見定めました。またキリスト教信仰のまなざしで、本当の恋愛とはなにか、女性の生き方、宗派を超えた平和を考え願い熱く語った言葉に私は、今なお強い共感を呼び起こされます。
 私は二十歳前後の生き方を模索していた時代に、透谷に自分の生き方を重ねあわせて思索しました。彼との対話は、文学に生きたいという私の志を後押ししてくれました。
 その時、最も心に響き、今も変わらず心にあるのが、この「人生に相渉るとは何の謂ぞ」の言葉です。
 
 透谷のこの評論は、山路愛山の文学の効用論、次の考え方に対するものです。
 山路愛山は、「文章は事業なるが故に崇(あが)むべし」と言い、その理由として、
「第一 為す所あるが為なり。 第二 世を益するが故なり。 第三 人世に相渉るが故なり」をあげます。
 山路愛山は、逆に「文章の事業たるを得ざる条件」として、次の三点をあげます。
「第一 空(くう)を撃つ剣の如きもの。 第二 空の空なるもの。 第三 華辞妙文の人生に相渉らざるもの。」

 それにたいして、透谷は文学の本質とは何か、文士の生き方はどのようなものか、を述べます。その核心をなす次の言葉が、私の心に強く響き続けています。透谷は言います、文士は、
「空(くう)の空の空を撃つて、星にまで達することを期すべし。」 

 以下には、この言葉を包み、この言葉に響き合っている透谷の言葉の原文を引用し、記憶に焼きつけます。赤紫太字は強調するために私がつけました。

 「人間の霊魂を建築せんとするの技師に至りては、其費やすところの労力は直(たゞ)ちに有形の楼閣となりて、ニコライの高塔の如く衆目を引くべきにあらず。衆目衆耳の聳動(しようどう)することなき事業にして、或は大に世界を震ふことあるなり。」

 「天下に極めて無言なる者あり、山岳之なり、然れども彼は絶大の雄弁家なり、若(も)し言の有無を以て弁の有無を争はゞ、凡(すべ)ての自然は極めて憫(あは)れむべき唖児(あじ)なるべし。然れども常に無言にして常に雄弁なるは、自然に加ふるものなきなり。
 人間の為すところも亦斯(かく)の如し。極めて拙劣なる生涯の中に、尤も高大なる事業を含むことあり。極めて高大なる事業の中に、尤も拙劣なる生涯を抱くことあり。見ることを得る外部は、見ることを得ざる内部を語り難し。盲目なる世眼を盲目なる儘に睨(にら)ましめて、真贄(しんし)なる霊剣を空際(くうさい)に撃つ雄士(ますらを)は、人間が感謝を払はずして恩沢を蒙(かう)むる神の如し。天下斯の如き英雄あり、為す所なくして終り、事業らしき事業を遺すことなくして去り、而(しか)して自ら能く甘んじ、自ら能く信じて、他界に遷(うつ)るもの、吾人が尤も能く同情を表せざるを得ざるところなり。」

 「高大なる戦士は、斯の如く勝利を携へて帰らざることあるなり、彼の一生は勝利を目的として戦はず、別に大に企図するところあり、空を撃ち虚を狙ひ、空の空なる事業をなして、戦争の中途に何れへか去ることを常とするものあるなり。
 斯の如き戦は、文士の好んで戦ふところのものなり。斯の如き文士は斯の如き戦に運命を委(ゆだ)ねてあるなり。文士の前にある戦塲は、一局部の原野にあらず、広大なる原野なり、彼は事業を齎(もた)らし帰らんとして戦塲に赴かず、必死を期し、原頭の露となるを覚悟して家を出(いづ)るなり。」

 「直接の敵を目掛けて限ある戦塲に戦はず、換言すれば天地の限なきミステリーを目掛けて撃ちたるが故に、愛山生には空の空を撃ちたりと言はれんも、空の空の空を撃ちて、星にまで達せんとせしにあるのみ。行(ゆ)いて頼朝の墓を鎌倉山に開きて見よ、彼が言はんと欲するところ何事ぞ。来りて西行の姿を「山家集(さんかしふ)」の上に見よ。孰(いづ)れか能く言ひ、執れか能く言はざる。」 

 「自然は吾人に服従を命ずるものなり、「力」としての自然は、吾人を暴圧することを憚(はゞか)らざるものなり、「誘惑」を向け、「慾情」を向け、「空想」を向け、吾人をして殆ど孤城落日の地位に立たしむるを好むものなり、而して吾人は或る度までは必らず服従せざるべからざる「運命」、然り、悲しき「運命」に包まれてあるなり。(略)吾人は吾人の霊魂をして、肉として吾人の失ひたる自由を、他の大自在の霊世界に向つて縦(ほしいまゝ)に握らしむる事を得るなり。」

 「造化主は吾人に許すに意志の自由を以てす。現象世界に於て煩悶苦戦する間に、吾人は造化主の吾人に与へたる大活機を利用して、猛虎の牙を弱め、倒崖(たうがい)の根を堅うすることを得るなり。現象以外に超立して、最後の理想に到着するの道、吾人の前に開けてあり。大自在の風雅を伝道するは、此の大活機を伝道するなり、何ぞ英雄剣を揮ふと言はむ。何ぞ為すところあるが為と言はむ。何ぞ人世に相渉らざる可からずと言はむ。空(くう)の空の空を撃つて、星にまで達することを期すべし俗世をして俗世の笑ふまゝに笑はしむべし、俗世を済度するは俗世に喜ばるゝが為ならず、肉の剣はいかほどに鋭くもあれ、肉を以て肉を撃たんは文士が最後の戦塲にあらず、眼を挙げて大、大、大の虚界を視よ、彼処に登攀して清涼宮を捕握せよ、清涼宮を捕握したらば携へ帰りて、俗界の衆生に其一滴の水を飲ましめよ、彼等は活(い)きむ、嗚呼(あゝ)、彼等庶幾(こひねがは)くは活きんか。」 

 「自然の力をして縦(ほしいまゝ)に吾人の脛脚(けいきやく)を控縛せしめよ、然れども吾人の頭部は大勇猛の権(ちから)を以て、現象以外の別(べつ)乾坤(けんこん)にまで挺立(ていりふ)せしめて、其処に大自在の風雅と逍遙せしむべし。
 霊性的の道念に逍遙するものは、世界を世界大の物と認むることを知る、而して世界大の世界を以て、甘心自足すべき住宅とは認めざるなり、世界大の世界を離れて、大大大の実在(リアリチイ)を現象世界以外に求むるにあらずんば、止まざるなり。物質的英雄が明晃々(くわう/\)たる利剣を揮つて、狭少なる家屋の中に仇敵と接戦する間に、彼は大自在の妙機を懐にして無言坐するなり。」

出典:青空文庫http://www.aozora.gr.jp/)、入力:kamille、校正:鈴木厚司を利用しました。
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房、1969年。
初出:「文學界 二號」女學雜誌社1893(明治26)年2月28日。


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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