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ユーモア、言語感覚。山之口貘の詩(二)

 沖縄出身の詩人、山之口貘(やまのくち ばく)の作品を通して詩を見つめて考えています。好きな詩の引用に続けて、☆印の後に、私の詩想を記します。今回のテーマはユーモアと彼独自の言語感覚です。


  再会

詩人をやめると言つて置きながら詩ばつかり書いてゐるではないかといふやうに
つひに来たのであらうか
失業が来たのである

そこへ来たのが失恋である
寄越したものはほんの接吻だけで どこへ消えてしまふたのか女の姿が見えなくなつたといふやうに

そこへまたもである
またも来たのであらうか住所不定

季節も季節
これは秋

そろひも揃つた昔ながらの風体達
どれもこれもが暫らくだつたといふやうに大きな面をしてゐるが
むかしの僕だとおもつて来たのであらうか
僕をとりまいて
不幸な奴らだ幸福さうに笑つてゐる。

☆ 私の詩想
 山之口貘ならではの独特な言い回しが躍動しています。「といふやうに」「のであらうか」「のである」の言葉の出し方と繰り返しが独自のリスムと(自分をつきはなして外から客観視する)とぼけた味わいに、読むものの心をなごませるおかしみと哀しみがにじみだしています。
 彼はどのようにしてこんな表現を身につけたのか? 天性の豊かさに生れたことはもちろんとしても、次の詩にみる要因があると私は考えています。


  晴天

その男は
戸をひらくやうな音を立てゝ笑ひながら
――ボクントコヘアソビニオイデヨ
と言ふのであつた

僕もまた考へ考へ
東京の言葉を拾ひあげるのであつた
――キミントコハドコナンダ

少し鼻にかゝつたその発音が気に入つて
コマツチャツタのチャツタなど
拾ひのこしたやうなかんじにさへなつて
晴れ渡つた空を見あげながら
しばらくは輝やく言葉の街に彳ずんでゐた

☆ 私の詩想
 沖縄出身の山之口貘にとって、生まれ育った沖縄の言葉と、上京して接した東京の言葉のギャップにはとても大きな溝があったように私は思います。大阪河内出身の私も語尾に「やんけ」と響かせる河内弁への愛着が強く、東京言葉の語尾につく「さ」の響きに、強い違和感がありました。私に比較できないほど言葉の差異を感じただろう彼は、言葉の響き、語感にとても敏感だったことが、この詩でわかります。
 「キミントコハドコナンダ」、「コマツチャツタ」、自分が生まれ育つときには使わなかったこのような言葉を、とても不思議な音として感じてしまうのです。私にとってこの意味を自然に伝える表現は「おまえどこにおんねん」、「こまってもた」(より正確には「わやや」ですが河内の人でないとたぶんわかりません)。沖縄の言葉の東京言葉とのギャップはこれ以上に大きいでしょう。
 山之口貘は、東京の日常言葉や、詩に使われる標準的な言葉を、遠いものとし眺めざるをえなかった、突き放して捉えることができたから、ふだん使われないような独特な言い回しに創り変えながら、楽しむことができたのではないかと、私は思います。


  賑やかな生活である

誰も居なかつたので
ひもじい、と一声出してみたのである
その声のリズムが呼吸のやうにひゞいておもしろいので
私はねころんで思ひ出し笑ひをしたのである
しかし私は
しんけんな自分を嘲つてしまふた私を気の毒になつたのである
私は大福屋の小僧を愛嬌でおだてゝやつて大福を食つたのである
たとへ私は
友達にふきげんな顔をされても、侮蔑を受けても私は、メシツブでさへあればそれを食べるごとに、市長や郵便局長でもかまはないから長の字のある人達に私の満腹を報告したくなるのである
メシツブのことで賑やかな私の頭である
頭のむかふには、晴天だと言つてやりたいほど無茶に、曇天のやうな郷愁がある
あつちの方でも今頃は
痩せたり煙草を喫つたり咳をしたりして、父も忙しからうとおもふのである
妹だつてもう年頃だらう
をとこのことなど忙がしいおもひをしてゐるだらう
遠距離ながらも
お互ひさまにである
みんな賑やかな生活である

☆ 私の詩想
 この詩もとても好きな詩で繰り返し呼んでいるうちに、山之口貘独自の言葉の言い回しが心に残ってしまい、まねしてみたくなったことがあります。彼の詩の言葉遣いにはそれだけの個性的な魅力があります。
 私の詩集『愛のうたの絵ほん』の詩「さらさら」と「ぴけ」は、この詩に特徴的に表われている山之口貘の温かみとおかしみのある言い回しの影響をあえて出そうと試みた創作です。主題には私の伝えたい思い入れを込めていますが、作品での一人称の語り手は高畑耕治ではなく、作品の主人公で、彼が山之口貘独自の言い回しをまねています。どのように感じていただけるでしょうか?


  数学

安いめし屋であるとおもひながら腰を下ろしてゐると、側にゐた青年がこちらを振り向いたのである。青年は僕に酒をすゝめながら言ふのである
アナキストですか
さあ! と言ふと
コムミユニストですか
さあ! と言ふと
ナンですか
なんですか! と言ふと
あつちへ向き直る
この青年もまた人間なのか! まるで僕までが、なにかでなくてはならないものであるかのやうに、なんですかと僕に言つたつて、既に生れてしまふた僕なんだから
僕なんです

うそだとおもつたら
みるがよい
僕なんだからめしをくれ
僕なんだからいのちをくれ
僕なんだからくれくれいふやうにうごいてゐるんだが見えないのか!
うごいてゐるんだから
めしを食ふそのときだけのことなんだといふやうに生きてゐるんだが見えないのか!
生きてゐるんだから
反省するとめしが咽喉につかへるんだといふやうに地球を前にしてゐるこの僕なんだが見えないのか!

それでもうそだと言ふのが人間なら
青年よ
かんがへてもみるがよい
僕なんだからと言つたつて、僕を見せるそのために死んでみせる暇などないんだから
僕だと言つても
うそだと言ふなら
神だとおもつて
かんべんするがよい

僕が人類を食ふ間
ほんの地球のあるその一寸の間

☆ 私の詩想
 前回とりあげた詩「玩具」とともに、私がいちばん好きな山之口貘の詩です。この詩を書けるのは彼しかいない、彼が沖縄に生まれたから初めて生まれた詩だと感じさせる詩です。
 彼の詩のもうひとつの魅力である感受性、時間感覚、宇宙感覚が最終行に浮かびあがっています。このことについて、次回とりあげたいと思います。

出典:山之口貘全集 第一巻 全詩集(1975年、思潮社)
底本:『思弁の苑』、『山之口貘詩集』、『鮪に鰯』(遺稿詩集)。

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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