主に著作権保護期間を過ぎた著作をインターネットで閲覧できる
「青空文庫」を私は時たま散歩します。
打ち込みされている人たちに感謝しつつ、利用させていただいています。
最近「青空文庫」で、
草野天平という詩人の「詩人といふ者」という文章に出会いました。私は今日この執筆直前まで、蛙の詩で著名な草野心平が書いたんだ、いいこと言うなあ、と思い込んでいましたが、名前を良く見治すと「天平」となっているので誤植かと、青空文庫と入力者の方に失礼なことを思いました。
草野天平は、草野心平の弟、別人だと初めて知り驚きました。
「詩人といふ者」全体が味わいのある個性的な文章ですが、特に良いところを書き留めます。
「詩のやうなものをただ書きさへすれば、それでもう詩人だといふやうなことは絶対に云へない。志を持つ人、といふと少し固く道徳的な感じがするが、少くともその感じに非常に近い、
或る充実して爽やかな気持を得るために歩く人、又は歩き得た人、これこそ間違のない真の詩人だといふ気がする。
詩といふのは、この綺麗な道中の無言の姿であるか、或ひは真の一声であるべきで、それは寸分の隙間もないその物のやうな本当さでなければならない。(略)本当といふことは容易なことではない。(略)それは一種崇高といつてもいい涙ぐましいほどの努め方をして始めて可能なのである。それは何に向つても構はない。ただ「泣くほど」なのである。
この泣くといふことが詩で、その善し悪しはどの程度のことにどれだけ本気の気持で泣いたかといふ、その広さと深さと正直さによつてはつきり決まるのだ。これが心に通じ心を打ち心を爽やかにする。(略)」
「自分は、はつきり云ふけれども、日本の詩人の中に真に詩人らしい詩人がゐないやうに思へて仕方がない。どの詩を見ても、大抵或る時のフトした気持の情であり味であつて、極くうはべの、実に自分を甘やかした涙である。この程度のことに泣き、そして詩を感じるやうでは、如何に苦労してゐないかといふことがはつきり解る。(略)やはり
涙は、個々に流す涙と、全体の為に一切流さない涙、つまり体全体が、一種のうるほひとなつてゐるやうな智と愛の姿にならなければ嘘である。」
「詩人は食へないと何処へ行つても言ふ。これは確かだ。然し本当はこれではいけないのではないかと思ふ。
詩人は、精神の純粋を考へると共に、肉体の純粋も同時に考へて、救はれながら食はうと努めなければならないものではないだらうか。金などに縛られるのではなく、寧ろそれとは逆に金を捨てて自由を得、その法則にかなつた自然さで快く食へる人間でなければならないのだ。詩人はこの現実を慾の世の中と見るべきではない。もつと広く自然と一つになつた現象界と見るべきで、力を籠めずに涼しく、そして一つ一つに関心を持つて、ただ在るべき者なのである。(略)」
*青空文庫の底本は
、『定本 草野天平全詩集』(1969年、弥生書房)です。
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