島秋人の『遺愛集』(1967年、東京美術)を初めて読みました。詩人の山下佳恵さんが教えてくださったのですが、思うことがとても多い歌集でした。
同書にある「著者のこと」を要約すると、昭和9年(1934年)生まれ、満州育ち、戦後新潟に引上げ、母は結核で亡くなった。本人も病弱で結核やカリエスになり小中学での成績は最下位で疎んじられ性格がすさみ少年院にも入れられた。昭和34年(1959年)餓えて盗みに入った家の人を殺し死刑囚となり昭和42年(1967年)11月処刑。歌から自殺を4回試みたとも知れます。昭和35年(1960年)から死の当日までの歌が編まれた同書は、歌との出会いと、彼を見守る人々との交感による、魂の生まれ変わりの記録として読むこともできます。
私は、このような背景をとおしてこの歌集を読んだけれども、彼の歌そのものにも、深く共感するものを感じまます。それは、万葉集の防人歌が時代を背景にしつつ、生きた人の真実の感情を今も伝えてくれるのと、同じだと思います。生きることへのあふれだした思い、愛(かな)しみと愛(いと)しさと祈りが織り込められた島秋人の歌を30首「愛しい詩歌」で紹介しました。
同書にある彼の手紙からも、彼の被害者と被害者の関係者への偽りのない贖罪の心と、彼を見守る優しい人たちとの心の交感が伝わってきます。
特に、当時既に80代後半だった
歌人の窪田空穂と20代後半の彼との歌を通して師弟関係、ともに死をまえにみつめる心の交感には、詩歌の本質を伝えてくれるものがあって、私の詩歌への思いを強く励ましてくれます。同書から以下に引用します。
序 窪田空稲 から、
「(略)島秋人の歌評をする以上、その表現技法に触れるべきである。
秋人君は表現技法に巧みではない。修練の年月が足りないのである。未熟で、たどたどしい作さえある。これは余儀ないことである。しかし秋人君の作は、
ほとんど全部取材は単純である。思い入れは深い。それを正直に、素直に表現しているので、作意は短歌形式に盛りきられて、程のよい、過不及ない物となっている。その出来のよい作は、稚拙さが却って真実感を生かす結果ともなっているのである。(略)その作を読みはじめると、心惹かれる何物かがあって、おのずから関心をもたされるからであろう。これは短歌形式そのものの魅力も手伝ってのことと思われる。」
島秋人から窪田空稲への手紙(同書82頁)
「(略)僕はおろか、ていのうです。だから
一生懸命裸になり切って真実を力として詠み、おろかなままに歌の道によろこびと悔いとを知らされて生きてゆく心です。(略)」
島秋人から窪田章一郎への手紙(同書144頁)
「(略)才能と能力とどっちもない頭の弱い私にはまねをするだけでもまねの出来ない大きな先生の歌です。只なぐさめとする事は
空穂先生の生きて来られた道と私の生きている日々の心と言いますか、態度と言いますか、その中にある嘘のない、裸になり切るもの、かざり気のないものが似ていると言うことです。私には歌になし得なかった思いが空穂先生は歌に詠まれていると言う違いがあり、大きなへだたりはありますが、「同じものを持つ」と言うことを知りうれしかったのです。(略)」
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