『古今和歌集』の巻第十一から巻第十五には、
恋歌が一から五にわけて編まれています。五回に分けてそのなかから、私が好きな歌を選び、いいなと感じるままに詩想を記しています。
平安時代の歌論書についてのエッセイをいま並行して書いていますが、優れた歌論書、歌人に必ず感じるのは、彼自身が好きな良いと感じた多くの歌をいとおしむように、伝えようとする熱情です。
なぜなら、好きな歌を伝えることは、彼自身の心の感動を響かせることでもあるからです。詩歌を愛する者にとって、それ以上の歓びはないように私は思います。
今回は四回目です。一首ごとに、出典からの和歌と<カッコ>内の現代語訳の引用に続けて、☆印の後に私の詩想を記していきます。
よみ人知らず、の歌が多くなったのは、好きな歌を選んだ結果で、意識的にではありません。心に響く歌を作者の著名度にとらわれずに選びました。
恋歌四
682 よみ人知らず
石間(いしま)ゆく水の白波立ち返りかくこそは見め飽かずもあるかな<岩間を流れて行く水に白波が繰り返し立つように、私も繰り返し立ち戻ってはこのようにあなたに逢いたい。それでも飽きたりない思いだ。>
☆ この歌のいのちは、心情の率直な表白です。「飽かずもあるかな」は、実感そのものです。単純でありながら、心ふかく、私は共感します。愛する想いは、古今の時代も、千数百年後の今も、少しも変わらないと。
清流の波立ちの白さと音が歌全体に、さわやかな空気を吹きかけてくれています。
687 よみ人知らず
飛鳥川(あすかがは)淵(ふち)は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ<飛鳥川の淵が瀬になるように目まぐるしく移り変る世の中であっても、私は一度愛した人のことは決して忘れはしない。>
☆ 上の句は「どのようにめまぐるしく変わる世の中であっても」を比喩で、定型的な表現ですが、この歌のいのちは、「思ひそめてむ人は忘れじ」、この言葉、想い、恋心の一途さにあります。自分に言い聞かせるような強さが、心に響きます。
694 よみ人知らず
宮城野(みやぎの)のもとあらの小萩(こはぎ)露を重(おも)み風を待つごと君をこそ待て<宮城野の下葉もまばらになった萩が露が重くて吹き払ってくれる風を待つように、私もあなたのおいでをひたすら待っていることだ。>
☆ けなげな、純真な、心に響くうたです。前半部の、露にぬれ頭を垂れるか弱げなうすももの萩の花、に自らを重ねながら、重苦しくつらい、涙ゆれる心をはらってくれる、「風を待つように、あなたを待っています」、優しい純真な想いの詩句は、風の透明感そのままに、心に吹き込み、心を洗ってくれます。
695 よみ人知らず
あな恋し今も見てしが山賎(やまがつ)の垣ほに咲ける大和撫子(やまとなでしこ)<ああ恋しい。今すぐにでも逢いたいものだ。山住みの人の垣根に咲いている大和撫子のような、あの人に。>
☆ あふれるままの恋の想いを冒頭に歌いあげた直情の歌です。「あな恋し今も見てしが」、「ああ恋しい。今すぐにでも逢いたい」、恋に生きるひと誰もが抱いている想いを吐露した後、想いをなげかける愛するひとは、ナデシコの花のイメージに重なり生まれ変わって、山間の緑につつまれ、可憐にゆれ、心に美しく咲きます。
人を愛する想いの、優しさを感じるうたです。
723 よみ人知らず
紅の初花染(はつはなぞ)めの色深く思ひし心我忘れめや<初咲きの紅花で染めた色が深いように、深くあなたを思い染めた頃の愛情を私がどうして忘れようか。>
☆ 紅の色に想いと一首そのものが染め上げられたような歌です。紅一色、単彩であることで逆に、強い色彩感を感じます。和歌、詩歌は言葉による芸術でありながら、意味とイメージを通じて、色彩ゆたかな、心象風景の絵画でもあることを、教えられます。
743 酒井人真(さかゐのひとざね)
大空(おほぞら)は恋しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ<大空は恋しい人の思い出の品でもないのに、どうして物思いにふけるたびにひとりでに眺められるのだろう。>
☆ 冒頭の詩句「大空は」で、心に空を、とても大きなひろがりを感じます。恋しさをつのらせ、なぜか空を見あげている心、どうしてだろう? この想いに自然な共感を覚えます。「形見かは」という問いかけの詩句で歌はいったん切れ、そこにため息のような想い余韻、休止、間(ま)が生まれています。そのあとのひとり言のようにもれでる言葉、「物思ふごとに眺め MONOOMOugOtONiNahaMe」は、物思いに似つかわしい音色を、子音N、M音と母音オO音の連なりで、穏やかに、もの静かに奏でています。結びの音色「らるらむ RARURAN(mu)」も、心に哀感を呼び起こされる響きです。
恋歌五
747 (略) 在原業平朝臣
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして<この月は去年と同じではないのか。梅の花が咲くこの春の景色は去年と同じではないのか。あの人がいない今、この私の身だけはもとのままの身で、すべてが変ってしまったように思われる。>
☆ 逢えなくなってしまった人への想いが、月のひかりに美しく響き聞こえてきます。「あらぬ ARAN」、「ならぬnARAN」の類音の繰り返しが、心の波の高まりになっています。その高まりの幸せの時は既に去り、下の句は、そこから静まり沈んでゆくばかりだと、哀しみが、静かに心に響きます。
出典:『古今和歌集』(小野谷照彦訳注、2010年、ちくま学芸文庫)
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