今回からは、断続的になるかもしれませんが、
日本の詩歌、和歌をみつめなおし、よりゆたかに感じとってゆきたいと思います。具体的には、代表的な歌学書とその例歌や著者の歌人の歌をとおして感じることができた私の詩想を綴っていきます。
初回は、905年頃まとめられた勅撰集
『古今和歌集』の有名な「仮名序」。著述者は撰者の一人、
紀貫之です。
冒頭の一文、この一段が私はとても好きです。詩歌はこのようなものだと素直に思います。
和歌、詩歌は、人間の心から生まれる。心が種となり、心に宿った種が、受精し、芽吹き、茎を、幹、枝をのばし、いっぱいの木の葉、言の葉をひろげる。
続く、鶯や蛙の声を聞くと、生きている心は「歌わずにはいられないからから歌う」、という表現は、心の感動こそが歌の源だといっていて、深く共感します。
結びのくだりには貫之の、自負と気負いからの誇張はありますが、少なくともわたしは、詩歌は男女の仲をもやはらげ」、人間の社会に希望を灯し続けてくれた、これからも、と思います。
詩歌を書いている一人として、読み返すたびに励まされます。
この文章を伝えてくれたことで紀貫之を敬愛していますが、私の和歌の好みからすると、彼の歌の多くは知的で技巧的すぎるように思えます。けれど詩歌を愛する人の心、種はゆたかなものだから、彼もやさしい心を素直にも歌っています。
『古今和歌集』恋歌一の、彼の可憐な抒情歌、私の好きなうたの花をここに、あわせて咲かせます。
●以下は、出典からの引用です。 仮名序 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言(こと)の葉とぞなりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出(いだ)せるなり。花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目には見えぬ鬼神(おにかみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをむな)の仲をもやはらげ、たけき武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。
<現代語訳>
和歌は、人の心を本にして、多くの言葉となったものである。この世の中に生きている人は、かかわり合う事がらが多いものだから、それにつけてあれこれと思うことを、見るものや聞くものに託して、歌として表現するのである。花に鳴く鶯や水に住む蛙の声を聞いてみると、すべての命あるものは、いったいどれといって歌を詠まないものがあるだろうか。力をも入れないで天や地を動かし、目には見えない魂や神を感じ入らせ、男女の仲をもうち解けさせ、猛々(たけだけ)しい武士の心をもなごやかにさせるのが歌なのである。
恋歌一
貫之
山桜霞の間(ま)よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ(山桜を霞の間から見るように、ほのかに見かけたあなたが恋しくてなりません。)
出典:『古今和歌集』(小町谷照彦訳注、2010年、ちくま学芸文庫) 次回は、続く時代に書かれた歌学書『新撰髄脳』の言葉を感じとります。
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