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与謝野晶子の詩歌(三)。まことの心をまことの声に。

 20世紀の冒頭から半ばまで、ゆたかな詩歌を創りつづけた女性、与謝野晶子の作品をみつめつつ詩想を記しています。
 今回は彼女の詩「君死にたもうことなかれ」に対する似非詩人の批判に対して、詩歌の本質を示し応えた激しく美しい文章「ひらきぶみ」です。

 日露戦争の戦地、旅順へ応召された弟への手紙に書き添えたという詩「君死にたもうことなかれ」は、日本近代詩以降の作品のなかで深く心に訴え続ける力のある優れた作品だと私は思います。
 この詩「君死にたもうことなかれ」は以前の記事「戦争を厭う歌。『日本歌唱集』(五)」で全文引用しています。

 今回の「ひらきぶみ」は1904年『明星』で発表されました。戦時中です。
 夫の文学者(『明星』主宰者)の与謝野鉄幹宛の手紙の形式で、富国強兵の政府権力におもねった先達の新体詩作者で学者の桂月による晶子の「君死にたもうことなかれ」への「たいさう危険なる思想」という批判に対して、晶子は文学の本質を述べ真っ向から立ち向かい、激しく反論します。
 
 深く共感する核心の言葉を抜きだし、今の日常語に私がしました(引用出典文中の赤字にした箇所です)。

「(この詩は)私が(戦場へ応召された)弟へだした手紙の余白に書きつけ送った詩歌です。なにが悪いというのでしょう、あれは詩歌です。」

「少女はみんな、戦争なんか嫌いです。」

「私の亡き父は、末の男の子(である弟)に、情けを知らぬ獣のような者になれなどとは、人を殺せなどとは、戦場へ勇んで加われなどとは教えませんでした。学校で短歌や俳句を作ることをゆるされていた弟は(心優しいので)、あのように何度も妻のこと母のこと、(妻が)身ごもっている胎児のこと、あなた(鉄幹)と私のことまで心配する言葉を伝えてくれたのです。このように人間らしい心をしっかりもっている弟に、女である私が、今の戦争唱歌の歌詞にあるような(御国のために人を殺し喜んで死ね)ことを歌うことなんてできるでしょうか。」

「(日露戦争が始まってから)近頃のように(兵士として立派に)死になさい、死ぬのが良いことなのだと煽り立てることや、またどんな事柄についても忠君愛国などの文字や教育勅語を引用し(絶対視して)論ずることが横行していることのほうが、(私の詩歌の言葉などより)よっぽど危険なのではないでしょうか。」

「詩歌は詩歌です。詩歌を創作し発表して生きているのですから、私はどうか後の時代の人に恥ずかしくない、真実の心を歌っておきたいのです。真実の心を歌っていない詩歌に、なんの値打ちがあるでしょうか。真実の詩歌や文学を創らない人に、いったいなんの(詩歌や文学にとっての)存在価値があるのでしょうか。」

「長い長い年月の後まで動くことも変わることもない真実の心情、真理に私はあこがれ心寄せているのです。この強い思いを詩歌にしているのです、それがわからぬ桂月様にはほっておいてほしいだけです。」

「私は思うのですが、『無事で帰れ、気を附けよ、万歳』と言っているのは、(その真実の心情をみつめ言葉にすると)私のつたない詩歌(の言葉)『君死にたまふことなかれ』と言っているのと同じなのです、私は真実の心を真実の声に出だすことよりほかには、詩歌の創りかたを知りません。」

「どうしてひ孫のような私ですらおぼろげに知っている詩歌(の本質)と日々の出来事との区別さえわからない桂月様はどうされたのでしょう(、それでもほんとに文学者、詩作者なのでしょうか)。」

 この言葉が、偽りのない言葉として響いてくるのは、まず、彼女の弟への偽りのない思いの強さからあふれでた切実な言葉であることが根底にあります。
 
 そのうえで晶子が、詩歌の本質は、真実の心、まことの心にだけあり、それだけは人間にとって時代を越えても変わることのない価値を伝える表現だと、その時々の世相や政治の利害と力で変転する主義主張とは時限と質が異なる表現だと、見抜いていたからだと思います。
 私は晶子がこのことを、幼少から読み親しんだ古典に心を染めて、知ったのだと思います。だからこそ、次のような、簡潔で忘れられない美しい言葉を伝えてくれたのだと思います。

 「まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。」
 「私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。」


 私もこの本質にだけは根ざし続ける詩人でありたいと強く願います。

● 以下は出典からの原文引用です。

 ひらきぶみ                  
             与謝野晶子

 (略)
 こちら母思ひしよりはやつれ居給《いたま》はず、君がかく帰し給ひしみなさけを大喜び致し、皆の者に誇りをり候。おせいさんは少しならず思ひくづをれ候すがたしるく、わかき人をおきて出《い》でし旅順《りよじゆん》の弟の、たびたび帰りて慰めくれと申しこし候は、母よりも第一にこの新妻《にいづま》の上と、私見るから涙さしぐみ候。弟、私へはあのやうにしげしげ申し参りしに、宅へはこの人へも母へも余り文おくらぬ様子に候。思へば弟の心ひとしほあはれに候て。(略)
車中にて何心なく『太陽』を読み候に、君はもう今頃御知りなされしなるべし、桂月《けいげつ》様の御評のりをり候に驚き候。私風情《ふぜい》のなまなまに作り候物にまでお眼お通し下され候こと、忝《かたじけな》きよりは先づ恥しさに顔紅《あか》くなり候。勿体《もつたい》なきことに存じ候。さはいへ出征致し候弟、一人の弟の留守見舞に百三十里を帰りて、母なだめたし弟の嫁ちからづけたしとのみに都を離れ候身には、この御評一も二もなく服しかね候。
 私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれば悪《わ》ろく候にや。あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛《め》で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺《さかい》の街《まち》にて亡《な》き父ほど天子様を思ひ、御上《おかみ》の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。弟が宅《うち》へは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。まして九つより『栄華《えいが》』や『源氏《げんじ》』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもますます王朝の御代《みよ》なつかしく、下様《しもざま》の下司《げす》ばり候ことのみ綴《つづ》り候今時《いまどき》の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争《いくさ》ぎらひに候。御国のために止《や》むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。(略)私の、私どものこの国びととしての務《つとめ》は、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐《ぎえん》などいふ事に冷《ひやや》かなりと候ひし嘲《あざけ》りは、私ひそかにわれらに係《かか》はりなきやうの心地《ここち》致しても聞きをり候ひき。
 君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、万一の時の後の事などもけなげに申して行き候。この頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑《うたがい》なき勇士にて候べし。さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげしげ妻のこと母のこと身ごもり候児《こ》のこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。
 私が「君死にたまふこと勿《なか》れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏《おそれ》おほき教育御勅語《ごちよくご》などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏《おそれ》おほく勿体《もつたい》なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。
 歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き長き年月《としつき》の後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月様お許し下されたく候。桂月様は弟御《おとうとご》様おありなさらぬかも存ぜず候へど、弟御様はなくとも、新橋《しんばし》渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光《ひかる》までもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。
 私十一ばかりにて鴎外《おうがい》様の『しがらみ草紙』、星川様と申す方の何やら評論など分らずながら読みならひ、十三、四にて『めざまし草《ぐさ》』、『文学界』など買はせをり候頃、兄もまだ大学を出でぬ頃にて、兄より『帝国文学』といふ雑誌新たに出でたりとて、折々送つてもらひ候うちに、雨江《うこう》様桂月様今お一人の新体詩その雑誌に出ではじめ、初めて私|藤村《とうそん》様の外に詩をなされ候方《かた》沢山日本におありと知りしに候。その頃からの詩人にておはし候桂月様、なにとて曾孫《ひまご》のやうなる私すらおぼろげに知り候歌と眼の前の事との区別を、桂月様どう遊ばし候にや。日頃年頃桂月様をおぢい様のやうに敬《うやま》ひ候私、これはちと不思議に存じ候。
 なほ桂月様私の新体詩まがひのものを、つたなしたなし、柄になきことすなと御深切《しんせつ》にお叱《しか》り下され候ことかたじけなく思ひ候。これは私のとがにあらず、君のいつもいつも長きもの作れと勧め給ふよりの事に候。しかしまた私考へ候に、私の作り候ものの見苦しきは仰せられずとものこと、桂月様をおぢい様、私を曾孫と致し候へば、御立派な新体詩のお出来なされ候桂月様は博士、やうやうこの頃君に教へて頂きて新体詩まがひを試み候私は幼稚園の生徒にて候。幼稚園にてかたなりのままに止め候はむこと、心外なやうにも思ひ候。(略)
 汽車中にてまた新版の藤村様御集、久しぶりに彼君《かのきみ》のお作読み候。初《はじめ》のかたは大抵そらにも覚えをり候へば、読みゆく嬉《うれ》しさ、今日ここにて昔の箏《こと》の師匠に逢《あ》ひしと同じここちに候ひし。宅の土蔵の虫はみし版本のみ読みならひて、仮名づかひなど、さやうのことどうでもよしと気にかけず、また和文家と申すもの大嫌ひにて、学校にてもかかるあさはかにものいふたぐひの人にわれ習はじとて、その時間に顔出さざりしひがみ今に残り候私なれど、この御集のちがひやう私にも目につき候は、さはいへあやしき襟《えり》かけし少女をくちをしと見る思《おもい》に候。(略)
 帰る日まで申さじと思ひ候ひしが、胸せまりて書き添へまほしくなり候。そはやはりふるさとは詩歌の国ならず、あさましきこと憂《う》きこと、きのふの夕より知りそめしに候。(略)
                     (『明星』一九〇四年一一月)

● 出典は、インターネットの図書館、青空文庫
「ひらきぶみ」。 入力:Nana ohbe 校正:門田裕志
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店、1985年。
初出:「明星」新詩社 1904(明治37)年11月号。

 次回も、与謝野晶子の詩歌をみつめ詩想を記します。
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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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