前回につづき、
中塚一碧楼(なかつか・いっぺきろう、明治二十年・1887年~昭和二十一年・1946年。岡山県生まれ)の自由律俳句から、私の心に特に響いた作品をとりあげ、詩想を記します。カッコ( )内は現代かなづかいでの読みを私が加えたものです。
今回は、
自由律俳句の音数律の自由度について、掘り下げて考えます。
夜の菜の花の匂ひ立つ君を帰さじ (よるのなのはなのにおいたつきみをかえさじ)
この句も、切れ字の伝統を捨てていて、上・中・下の明確な切れ目がありません。詩句の意味の切れ目は「よるの・なのはなの・においたつ・きみを・かえさじ」ですが、どこをつなげごこで切るかは読者の任意性にまかされていて、「よるのなのはなの8音・においたつきみを8音・かえさじ4音」とも、「よるの3音・なのはなのにおいたつ10音・きみをかえさじ7音」など幾通りかの読み方ができます。
俳句は短い字数なのでこの音数律の自由度、切れ目の任意性があっても、短詩、句としてのまとまりを感じます。
さらに字数を多くして多行にまで拡大させた場合、詩としてのまとまりは崩壊し、散文に限りなく近づき、ほとんど変わらなくなると私は思ます。散文も読みやすさを考慮して句読点はつけますが、それの位置を動かすことに対して書く手のこだわりはそれほど強くありません。
ですから私自身は、詩歌であることにこだわる作品を書く場合には、必ず余白、改行、句読点の位置を明記、して、読む字数、詩句の切れ目、読むリズムを、表現します。その拘りの意識のない、なんとなく詩のかたちにした作品が行分け散文です。
自由律俳句を生みだした俳人たちが、意欲し宣言したものの、従来の俳句の字数17文字を大きく超えたり、複数行にわたる作品を作らなかったのは、短詩型への志向、好みだけではなく、上記の理由による詩とする難しさを感じたからではないかと、私は考えます。
以下に、
中塚一碧楼の自由律俳句から、私がいいなと感じた作品を引用します。
ふるさと、二句
青田の中白雲のひゞき地に入る
青き海へ礫す弟と小石あらむ限り☆連句としての意識が、初句の「青」に働いています。
水鳥を見たはかない満足で帰ります☆口語調による散文化を敢えて意識し選んでいます。
あはれ蝉のうまれ出でし木のもと☆生と死を見つめる、感動の強い句。
一つの星のほのかなるや星のつらなり☆「ほHO」の音の頭韻が美しい。
山一つ山二つ三つ青空☆「一つ」「二つ」「三つ」が童話調で優しい句。
とつとう鳥とつとうなく青くて低いやま青くて高いやま☆字数の伝統の殻を自由に破るんだと意志を感じるのびやかな句。
松の木のすがた又の松の木のすがた冬の日ひかり☆「まMA」の音の頭韻と、「の」音の繰り返しが生むリズムが音楽的な句。
これらの作品を読むと私は、水滴の美しさを感じます。言葉の滴です。自由に揺れ光を変化させるそのやわらかさが、美しいと感じます。そのかがやきの姿は一度きり生れて二度と生れず、規則性、再現性がありません。
水滴は限られた条件を超えては大きくなれず、割れ壊れ流れてしまいます。自由律俳句の美しさは、水滴の割れる寸前のゆらめきにあるのだと私は感じます。
■ 出典『現代句集 現代日本文学大系95』(1973年、筑摩書房) 次回は、ほぼ同時代に異なる個性で自由律俳句へと歩んだ俳人をみつめます。
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